事実は一つ、景色は色々(改版1)

何かのきっかけでお会いして話を聞くと、つくづく「人それぞれ」だと思うことがある。話をするまでもなく、体躯も違えば容姿も、服装もなにもかも違うのだから、一見で「人それぞれ」が出てきてもよさそうなものなのだが、話を聞くまでは出てこない。

リンゴが好きかミカンが好きかという類の違いであれば、「人それぞれ」が出てきたとしても、すぐに消えて気にもならない。 あまりにも違う社会観や考えを聞いてか聞かされて、踏み込んで整理するまでもないときや、とりあえず違いをそのまま置いておくときに、「人それぞれ」が出てくる。それは、自分の価値判断や思考回路を安全停止するための自分に対する「掛け声」のようなものかもしれない。

意見は、社会現象の認識して、認識したものやことを自分の思想(志向や嗜好)によって理解し整理して出てくる。思想は環境(社会)から認識し吸収したものから組み上げられたものだし、その思想による思考も社会現象の認識――情報収集と消化吸収から始まっている。

自分の視点が、どこまで事実の総体を認識しうるかについて、疑問や不安を持っていないかのような話を聞くと驚く。あまりに偏った情報と、それを当然と思わせる思想の偏りを、あるべき姿と信じ込んでいる人に会うと、意見や主張より、どこをどうしたら、そこまでずれた考えがでてくるのかに興味が湧く。話を理解しようとする気が失せて、偏った理解と偏った思想の基となったものを探したい誘惑にかられる。

傲慢になりかねないが、気にしたところでどうなる相手でもなし、頭の乱視と近視にどこまで付き合うのかという俗な気持ちも拭いきれない。本人は考えているつもりらしいが、それは、どうみても新興宗教の経典のように理解するとか考えるのではなく、盲目的に信じるに近い。どんなに理をつくして話したところで、固定焦点の視野と思考回路に何ができるわけでもない。
それでも、どこかに共通の視点はないか、多少は固まった思考をほごせないかと思う。事実は一つかもしれないが、それをどこからどう見るかで、見える景色は色々あるという、当たり前のことを話してはみるが、いくらもしないうちに話が途切れる。

たとえば、ここに円錐形(アイスクリームコーンのような形)のものと円筒形(お茶筒のような形)のものが一つずつあるとしよう。 円錐形を上から見れば、見える形は円。円筒形も見える形は円。上からしか見えない、見ようとしない、それ以外に見る方向があることなど考えもしない。なかには、それ以外の方向から見るのは、歴史的にか道徳的にか間違っていて、してはならないことと信じて疑わない人たちもいる。その人たちにとっては、円錐形も円筒形も同じ円で、二つのモノが同じものにしか見えない。

二つのものを真横からしか見ようとしない、それが以外の方向から見るなんてことを考えもつかない人は、円錐形は三角形に、円筒形は長方形に見える。そう見る人は、どちらも円にしか見えない人に、円なわけがないだろう、どう見たって、三角形と長方形だと主張する。それを聞いて円にしか見えない人は、何を馬鹿なことを言ってる。誰がどう見たってどっちも円にしか見えない。あいつは目が悪いか頭がおかしいと思う。

それでも、この二人は円錐形と円筒形の「モノ」を見ているから、まだ救いがある。なかには、円錐形や円筒形に光が当たってできた影をみて、光の当たる方向が変わるたびに、形が変わる歪んだ三角形や台形を「モノ」と信じている人たちもいる。
光が全反射すると、反射される光が強すぎて、モノとしては何も見えないことある。そこから、何もないという主張すらでてくる。

事実は一つであったとしても、どこからどのような条件で見るか、見ようとするかによって、見える景色が違うという単純な話でしかない。この単純な話がいがいと通じない。誰もがその見えたまでのものでモノをモノとして捉え、その捉えた情報を持ち前の知識でモノがなんなのかという認識のプロセスにはしる。そこで、蓄積された知識や思想がバイアスとして働いて、はじめて、これがモノだという結論に達する。そこから自分の理解を意見として発する。

違う意見を聞いたときに、複数の視点でその意見を検証するのは、思うほど簡単ではない。してもしょうがないと思いながらも、検証したい誘惑にかられる。
1) どこから見た景色に基づいた意見なのか?そのような意見を産み出す景色が得られるのはどのような視点なのか文化なのか?
2) 得られたであろう景色をどのようなバイアスのかかった思想で処理すれば、そのような意見が出てくるのか?
3) そもそも、一つの事実に、いくつもの違う景色があり得るということを理解する、受け入れる素地があるのか?

[宗教や主義]
名古屋で、ボストンで、コペンハーゲンで……中近東のイスラム教の人と世間話をする機会があった。一方的にイスラム教の社会観を振り回されて疲れた。最後は三人とも「コーランを読め」だった。読まなきゃ、あの人たちの主張の背景(景色)など想像もできないと思うのだが、そのうちと思う気も湧かない。どうにも手にとる気がしない。
宗教の人の話を聞かされると、程度の違いはあっても似たように感じる。感じるたびに、その宗教の経典を読むのか?と思うとますます手がでない。宗教だけでなく、なんとか主義にまでになったら、多すぎてとてもじゃないが手に負えない。
2016/11/27