ググれ−知のコンシェルジェ(改版1)

かつて、何か分からないことがあったら、しっかり知っておかねばならないことに遭遇したら、まずは、大きな本屋にいって参考になりそうな本を探した。
本屋に行っても、参考になる本がすべてそろっている訳ではないし、市や区の図書館に行っても、仕事で関係する分野やレベルまで踏み込んだ本はなかなかない。限られた選択肢のなかから、これはと思う本を買って、そこから得た知識で次の本を選んでになる。そこそこの知識を得るために二三冊の本を読むことになるが、得られる知識はそこまでで、それ以上には進めない。業界にいて、内部資料を持っている人にしてみれば、素人が壁の向こうで、何をうろちょろしているんだろうという感じだったろう。

本にしても資料にしても、この辺りのものならと見当がつく範疇ならまだいい。持ち合わせの知識から遠く離れた分野のこととなると、どんな本がありそうなのか見当もつかない。自分の知識では、どこをどう探していいのか分からないとき、誰か知っている人はいないかと心当たりの人に訊いた。運よく、なんらかのきっかけでも得られれば、そこから手さぐりで探し続けた。

新しい市場を開拓しなければならない仕事がら、頻繁に未経験の分野にとりくまなければならなかったからなのだが、いつも徒労に終わりかねない情報探しに走り回っていた。ないかもしれない情報や資料を探していて、やりきれない気持ちになったのを覚えている。もうちょっと遅く生まれていれば、インターネットもあるし、あんなに時間と労力を無駄にすることもなかったのにと思う。
インターネットにサーチエンジンが出現して、知識や情報を探す作業に革命的なことが起きた。インターネットにアクセスできれば、日常生活や仕事で必要とする知識や常識のありとあらゆるといっても過言ではないものが、少なくとも入門レベルのものであれば、いながらにして得られる。

スマホにGoogleが必携になって、Googleをどれだけ使いこなせるかが、人の知識の種類と量の大枠を決める時代になった。ただ、インターネットにでてくる溢れる情報が、全て役に立つ情報とはかぎらない。実情から遅れた情報もあれば、人を惑わすものもあるし、中には特定の利益集団への誘導を目的としたものまである。
使いこなすための能力として、いらない情報を直観的といっていい感覚で捨てられなければ、ゴミ情報の処理に時間がかかる。この時間が、かつての、ないかもしれない情報探しに使った時間に相当するのかもしれない。本当に必要な知識や情報を最短時間で見極める能力が必須になる。

昔、テレビが普及しだしたころ、幼児がチャンネルを回していて、幼児向けの番組を一目で見分けるという話を聞いたことがある。みたところ、それと似たような感じで、さっと必要な情報を見繕ってくる若い人たちの手際よさ、いったいどうやったらそんなに上手にと訊いたことがある。
この類の常で、毎日、いろいろ検索しているうちに、いつのまにやらという答えしか返ってこなかった。ただその言葉の裏には、インターネットの発達した今日日、Googleを上手に使いこなせなければ、フツーの生活すら難しい。社会から落ちこぼれる可能性さえあるとう恐れに近い「常識」が垣間見える。

今や、何か分からないことがあったら、人に訊く前にGoogleで調べてみることが常識になっている。調べもしないで訊けば、条件反射のように「ググったか?」か「ググれ」と言われる。ググれきれないと、必要とする知識が得られない。上手にググれれば、偉そうにしている先生や上司に訊くより、余計なバイアスも避けられるし、はるかに効率がいい。Googleのおかげで、いつのまにやらSelf-learning(独習)の習慣がついてしまった。

運転免許なんかなくてもいいが、ググる能力がないと、時代に付いて行けない。Google、落語に出てくるなんでも知っている横町のご隠居さんのような、今風に言えば「知のコンシェルジェ」に見えてきた。何か分からないことがあったら、まずGoogleで。今をさら何?常識だろう、若い人たちのあきれ顔が目に浮かぶ。

ググるついでにもう一つ。インターネットにGoogleまではいいが、ウィキペディアとWikipediaの情報の違いを知ると、実質世界の共通言語となった英語まででは出ていくしかないと痛感する。日本語に留まっていれば、情報の質も量も限られる。知識の量と質の大枠が、不等式「Googleを使えない<使えるが日本語まで<英語でも使える」で表される。
2016/11/13