長靴とサンダルと原発と(改版1)

少々の雨では誰も長靴を履かない。舗装がいき渡って、靴の防水性がよくなったからだろう、かなりの雨でも長靴を履いた男性を目にすることはめったにない。女性のパンプスはファッション性を優先して、耐久性は二の次で水には弱い。それのせいか、長靴を履いているのは圧倒的に女性で、中には短い長靴と長い長靴を使い分けている人もいる。長い長靴は見るからに歩きにくそうで、強い雨でもなければ、また雨が上がってしまったときのことを考えると敬遠したくなる。

長靴を履けば足が濡れるのを防げる。防げるのはいいが歩きにくい。歩き易さを犠牲にして濡れるのを防ぐ。これがふつうなのだが、なかには濡れてもかまわないという逆の選択肢を思いつく人がいる。丈夫なサンダルで歩きやすさを優先して、表を歩いている間は濡れるにまかせてしまう。事務所についたら濡れた足を拭いて、事務所用の履物に替えればいい。暖かい期間限定だが一理はある。

この雨の日のサンダルで、昔の油圧回路を思いだした。高度成長期以前の産業機械に、濡れるに任せたサンダルと似たような設計思想があった。Oリングやオイルシールなど油漏れを防ぐ有効な手段が実用化されていなかったため、作動油の漏れを防げない。いくら嵌合を詰めても、作動油はなからず漏れる。漏れるのはしょうがない。ならば、漏れた作動油をどう回収するかという設計になる。

就職した七十年代には密閉手段が改善されて、作動油は漏れないものとして設計していた。その目で、一世代前の加工物クランプの油圧回路の設計図をみて、図面を読み切れなかった。作動油の漏れを防ぐシールがない。どうみても作動油が漏れる。作動油を漏れるに任せた設計があるなど想像もできなかった。変な顔をして図面を見ているのに気がついた上司から、「漏れたら、回収すればいいだけだろう」と言われた。何を言われたのか分かるまでちょっと時間がかかった。漏れないことを前提とした構造しか考えたことのないものには、目からうろこの驚きだった。

ちょっと気を付けてみれば、漏れるのを防げない構造がいくらでもある。地下鉄や地下道などの地下構造物は、常に土壌からの水の浸入に脅かされている。数メートルの大きさの機械でも作動油の漏れを完全に防ぐのは難しい。ましてやインフラ構造物で水漏れを完全になくすのは不可能と考えた方がいい。いくら周到な設計に完璧な施工でも必ずどこからか漏れる。漏れた水をポンプで汲み上げてしかるべき水路に放水するしか方法がない。
地下通路などで、漏れることを予想していなかったところから漏れ出てくる水の処理ができなくて、水漏れ注意などの貼紙を見ることがあるが、これは水漏れ対策がいかに難しいかの証左だろう。

作動油漏れや水漏れにかぎらず、何をしても完璧はない。完璧に限りなく近い状態を実現できるかもしれないが、スペースシャトルでもあるまいし、コストを考えると、完璧を追求したくてもできないことも多い。
人間社会も似たようなもので、犯罪も汚職も賄賂も談合もインサイダー取引も何もかも未然に防げると仮定してもしょうがない。いくら防ごうとしても、必ず問題は起きる。「想定外」という言い訳をしないで済むように、できる限りの「もし」を想定して、問題が起きないように最善を尽くしたうえで、起きてしまったら、それにどう対処するかの対策を用意しておくしかない。

問題を問題としない対策があるうちは、そしてその対策を講じられれば、それでいいじゃないか。むきになってもしょうがない。どこかで割り切ってしまうことも必要ということなのだろう。足が濡れたら拭けばいい。
フツーの日常生活で遭遇することの多くが、「足が濡れたら拭けばいい」で十分なのだが、原発事故がそれで済まないことがあることを教えてくれた。大量の放射能が漏れたら?放射能汚染は最終的に水の汚染になる。汚染された水は回収しようにもしきれない。ああだのこうだのと対策のようなことを言っているが、言辞を弄した方便以外のなにものでもない。最終的には海洋に希釈するしかない。
どんな対策を講じたところで漏れる可能性をゼロにはできない。万が一の漏れを考えれば、できることはただ一つ。漏れるかもしれない施設などつくらないことだ。
2017/3/5