Freedom for contribution(改版1)

八十六年から一年ちょっと、アメリカの制御機器メーカのクリーブランドの事業部に長期出張していた。事業部の本社機能があるエリアに向かう通路に大きな掲示板があった。そこには通知や連絡にイベントのお誘いや落し物まで、さまざまなものが貼ってあった。どれもこれも英語でいちいち読む気がしない。景色になってしまって気にもかけないのに、二つだけは違った。一つは大きなポスターで、イメージ写真のような空を背景に「Freedom for contribution」の文字が浮いていた。もう一つは、皮膚から浸透するバンブーというドラッグに対する注意だった。さすがにこれは気になって何度も読み返した。
Freedom for contribution、直訳すれば、「どうやって貢献するかは各自の自由だ」あたりになるが、すでに出社はフレックスを超えてルーズにちかい。仕事を抱え込んで自宅に持ち帰るのもいる。服装もビジネスカジュアルどころではなくなっていた。会議にしても何にしてもリベラルな雰囲気の事業部だった。

聞いた話で真偽のほどは知らないが、八十年代中頃までは、二万人からの従業員の定着率九十八パーセントを誇る超優良企業だった。創業家の末裔のオーナーの気持ち―名家としてはずかしくない会社であって欲しいというのが経営に反映されていた。一事業体が長年赤字でも、他の事業体に併合して、総体で赤字でなければかまわないという鷹揚な経営だった。
人付き合いの悪い日本人には疲れる会社で、従業員のコミュニティとでもいうのか、しょっちゅうなにかのイベントがあった。夏場の土日はどこかからアウティングといってバーベキューかなにかの声がかかる。部署対抗のフットボールもあれば、バスケットやバレーボールもある。あっちからもこっちからも家族ぐるみで夕食に呼ばれる。日本にいるときよりうっとうしい。

本社の建物には本社機能の他にマーケティングとエンジニアリングに品質管理部隊しかいない。そこにわざわざ「Freedom for contribution」。誰のキャッチか分からないが、文字通り読んで終わる知的レベルの人がいないのを前提としている。おだやかな言葉に言外のプレッシャーがある。
「状況をどう考えて、何をどうするかは、従業員のみなさんの自由ですよ」皆さんの会社ですから、みんなでよくしてゆきましょうという日本の家族経営のアメリカ版の体裁がある。体裁はリベラルだが、そこはアメリカの会社、業績が悪ければレイオフもある。そんなところで「Freedom」と言われても、「何をしてもかまわないが、結果をだせ」と言っているようにしか聞こえない。人によっては、うっとうしい、剥がしてしまいたい衝動にかられるポスターだった。

ろくに見なくなってしまった掲示板が、日本から出張できた人たちには新鮮なのだろう。支社や関連会社からの人たちや顧客までがしばし立ち止まって英語の張り紙を見ていた。誰も細かな文字で書かれた英文を最後まで読みゃしない。目がいくのは「Freedom for contribution」なのだが、誰も真意に気がついたような様子がなかった。それが社外の人ならしょうがない。支社で何年も働いてきて、それなりの立場にいると自分でも思っている人までが、文字通り読んで、日本よりこっちの方がいいと言うまでだった。
辞書を引くまでもない英語で、誰でも字面では読める。ただ、貼ってある場所とそこにいる人たちの知的レベルまで勘定にいれる思慮がなければ、真意はわからない。標語に言わんとしていることが、人としての在りようを真正面から喚起していることに気がつかない。

年齢からしても立場からしても、「Freedom」をみて、ただ何でも好きにしていい自由しか思い浮かばないわけではないだろう。義務や強制や何らかの拘束に縛られて、上司の命令だから、やらなきゃならないからやるのであれば、やった結果に対する責任など、あったところでたいしたものではない。
「Freedom」とは、自分で状況を判断して、自分で何を、どうするか考えて、仕事でもなんでもやってゆくことに他ならない。そこには結果とその結果を生み出したプロセスに対する「自分」の責任がある。

「Freedom」と言われて、それが英語だからといういい訳もあるかもしれない。では日本語で自由と言われれば、自由の後ろに不自由なときには想像もできない大きな責任がついてまわっているのがわかるのか。不自由は不自由だが、気楽で少なくとも責任からは自由だが、自由はある意味自分で自分を不自由にする。
2017/1/8