過去を断ち切る勇気(改版1)

何においても平坦な道はない。山あり谷あり、ぬかるみもあれば、藪でどうにも進めないこともある。いつでもどこでも似たようなもので、ここまではしょうがない。ところがそこに関係者の野卑な思いや、ねたみまで絡んでくると、もともとごちゃごちゃになってから転がり込んできた仕事、冗談じゃないと啖呵の一つもきって、放り出したくなる。
そんなところで、そりゃないだろうというのを数え上げたところでどうなるわけでもない。なにがどうであれ、人様が勝手に作ったゴタゴタに一生おつき合いする義理もない。ゴタゴタ処理の道を究めようなどというバカげた思いなど、はなからない。それでも、一緒に泥沼に入ったのも何かの縁、俗な思いも多少はあって、人間関係も気にはなる。やってられるかと思いながらも、こっちの道からそっちの道へと飛び移るのも気が引ける。ゴタゴタの張本人から軽佻浮薄の汚名をきせられるも間尺に合わない。

移る先の道、いくら知っているつもりでも、今まで歩いてきた道のようにはゆかない。外から見るのと、実際に歩くのとでは天地の違いがある。移った先の道が、それなりの道ならまだしも、追い剥ぎだらけだったり、ちょっと歩いて行ったら橋がないとか土砂崩れで、それこそ「つるはし」もって土木工事もどきなることすらある。失敗したと思っても、元の道に戻るわけにもゆかない。

道を移るのは、大げさにいえば命がけ。家族の生活までという気はないが、少なくとも自分の将来がかかっている。造作なく飛び移っているようにしか見えない人たちも多そうだが、傍(はた)でみえるような簡単な飛び移りなんかありゃしない。別の道に移るということは、それまで歩いてきた道−自分の過去を、たとえ一部でしかないにしても清算しなきゃならない。何でもそうだろうが、始めるのは簡単でも、止めるのは精神的にも疲れる。

いくら調べても考えても、歩いてきた道を歩き続けた方がいいのか、それともそこに見える別の道の方を歩き始めた方がいいのか分からない。渡ったそのときのいい悪いでもなし、何年も経って、極端に言えば棺桶に入るまで、場合によっては入ってからずーっと後になっても何が良かったのか、良くなかったのかという話になりかねない。一時の判断で、どっちがいいの悪いのというほど簡単なものじゃあない。

それでも、ゴタゴタにいい加減うんざりして、別の道の可能性があるんじゃないかと思い出す。可能性を真面目に考えだしたところで、余程のことでもなければ自分の将来を賭ける道などおいそれと見つかるわけもない。今になって振り返れば、歩いてきた道が別の道と交差していて、歩いていた勢いが幸いしてか災いしてか、けつまずいたかような感じで、気が付いたら別の道を歩き始めていたような気がする。

真剣に乗り換えを考えて、別の道を探さなきゃと思いだす理由は色々だろうが、言ってしまえば、今までの道を歩き続けることが出来なくなったか、したくなくなったかだろう。たとえ歩くことを許されても、歩き続けたところで、たいして得るところがないのがはっきり見えてしまったら、歩くにしても力が入らない。将来が見えないから頑張れるので、どうしようもない将来が見えたというのか決まってしまったら、頑張ろうという気にもなれない。その日その日をつつがなく過ごして、棺桶までたどり着ければいればいいやの人生でもないだろう。たいした人生じゃないにしても、誰しもそれなりに生きがいは欲しい。

先が見えてしまうとつまらないが、見えなければ不安。見えても見えなくても落ち着かない。ただ、どう見ても先が見えてしまった、決まってしまったと思っても、実際先の時になってみないと、見えたと思っていたものがあるのか、違うものがでてくるのか分からない。分からないのに、見えてしまう(しまったと思う)と、決まってしまったと思うと、次の一歩に力が入らない。

歩いてきた道より、飛び移れる道の方が、いろいろな面で歩く意味が明らかにありそうと思えれば、多少の無理をしてでも飛び移る人がでてくる。知らない道で未経験の楽しみもあれば苦しみもあるだろうが、まだまだ先に向かって歩いて行けると思えれば、人は歩き続けられる。移ったとたんに、それまで経験したことのない状況に陥ることもあるだろう。その時、今までと同じように、あるはもっと上手に歩けるかと心配しながら、歩き始める。一歩一歩歩きながら新しい環境から学んで、環境に適応してゆく。

これがフツーの人たちの、フツーのちょっとした勇気の発現だと思うのだが、どういうわけかこのフツーのチャレンジを拒否する人たちがいる。誰がどう見ても、今まで歩いてきた道が、この先、道になっていないというか、もうかなり前から明らかな閉塞状態に陥っているのが分かる。本人は歩いているつもり、しばし、歩けてないのに気が付いているのに、歩いている格好をつけようとしているだけなのが見える。

運不運もあるし、誰も完璧じゃない。誰しも、できれば今までのまま、仕事でも家庭でも何でもその自然延長線で続いていってくれればと思っている。それをし続けられない状況に至ったとき、誰でも今までとは違うことを試してみる権利があるし、社会の目からみれば、しなければとまではいかないにしても、した方がいいという常識もある。にもかかわらず、自分の過去を大事にしたいのだろう、変わることを拒み続ける人たちがいる。

人間、誰も自分の過去を否定するような転身はしたくない。したくはないが、適当な理由をこじつけてでも、しなければならない状況に追い込まれることがある。気持ちの整理でも心の整理でもいい、物は見ようで、ほとんどどんなことでも、その気になれば、それなりに都合よく正当化できる。幸いなことに、人間社会はそれを可能にするほどまでには、進歩しているというのか、現代社会は十分に複雑にできている。

それでも変わろうとしない。なぜ、変わろうとしないのだろうと改めて想像してみれば、どうもそれは、立派な、それでいて、安っぽい俗なプライド(失礼?)でしかないように思える。
人が人として生きるには、プライドはなきゃならないが、自分自身を束縛するだけのプライド、早々に捨てちゃえって、それとはなしに言ってはみるのだが、捨てられれば、そんなことを言うこともないわけで。そのプライドがあるから、その人だということでもある。でも、なくなっても、その人でなくなるわけでもないのにと思うのだが、その人は、歩いているつもりでいようとする。それでしか、その人としてあり得ないと信じ込んでいるのか、信じ込んだ格好でいたいのか分からない。いったいいつまでと思うのだが、訊いてもしょうがない。
2016/9/4