残された・使える・過ぎ去る時間(改版1)

平等……と言われると、ありっこないのにとひっかかっても、そうあって欲しい、そうでなければという気持ちもあって、否定的なことは言いにくい。
改めて考えるまでもなく、人間、生まれてからというより、生まれる前から平等ではない。複数の人が同じ条件で存在することなどない。体躯も容姿も違えば、人種も肌の色も違うし、遺伝的な資質も違うし、棲むところも違えば、日々の食事にも、置かれた文化的環境も教育機会も、きっかけや運まで含めて、ありとあらゆる点でみんな違う。
なにからなにまで違うのに、時間だけは、誰にも平等に一日二十四時間、一年三百六十五日与えられている。時間は全ての人に平等で、そこには疑問の余地などありようがないように思える。

[一卵性双生児]
こんなことを言えば、一卵性双生児は?という人もいるだろう。一卵性双生児の父親としての個人的な経験からでしかないが、二人は確かに似てはいるが、十分すぎる違いがある。お互いにお互を意識するのだろう、一歳になる前から、何かにつけ違い主張していた。

三十半ばには、会社組織のなかでそれなりの責任ある立場になっていた。環境や条件は、自分の努力で変えることができるにしても、大勢は与えられるもので、上司や部下も選べない。そこで、自分が率いる部隊をもっとも効率よく、生産的でもあり、なおかつ自分(たち)の夢を追いかけられる仕事にしようと腐心していた。上司には部隊が最もよく活動できる環境作りの支援を求めたし、部下とは最善の仕事をすべく話し合いを欠かさなかった。
ただ、いくら状況を説明して、納得してもらっても、そりゃないだろうということが起きる。それも最善を尽くしての結果として起きてしまうのならまだしも、最低限のこともしないで、何度も似たようなトラブルを起こされた。その収拾に走り回っていると、いい加減にこんなことでオレの、部隊の他の人たちの時間を使わせるなと怒鳴りたくなった。
誰しも与えられた一日二十四時間しかない。その限りある二十四時間を誰かの、あまりにだらしのない仕事の後始末に使わざるを得ない状況が続くと、オレの時間を返せと言いたくなる。
一日二十四時間が、社会的や個人的な違いや思いから、時間のありように違いが生まれ、平等に与えられているはずの時間が不平等になる。

四十代の半ば、六十の定年まで、まだまだいろいろやらなければならないのに、残された時間は十五年。それが五十の半ばなら、五年しかない。三十歳を出たばかりの頃なら、まだ三十年近くもあるからだろう、そんなこと考えることもなかった。
歳をいけばいくほど、残された時間が貴重になる。若いうちは、たとえ大きな失敗をしても、その失敗を取り返す時間がある。歳をとるというのは、その時間が残り少なくなるということに他ならない。残った時間を考えると、大きなリスクを冒すのが怖くなる。若いときのように無茶はできないという気持ちはあるが、何時までも、今のままやその延長線にいるわけにもゆかないし、いたくもない。とにかくやらねば、早く手をつけなければという思いが強くなる。

誰にでも平等にある時間のように思えるが、残された時間という点からみれば、平等にはない。七十過ぎてもかくしゃくとしている人もいれば、五十を前に人生のほとんどが終わってしまったように見える人もいる。人それぞれ、能力も気力も体力も精神力も違えば、依って立つ環境や条件も違う。ただ環境や条件が違っても、与えられた時間より歳相応に残された時間の方が大事ということでは何もかわりはない。

さらに歳いってくると、残された時間より使える時間が重い意味を持つ。仕事仕事で生涯現役に価値を追い求める人であれば、使える時間も仕事に忙殺されていた方が幸せだと感じるだろうし、仕事はもういい、余生を何にとらわれることなく、ゆったり過ごしたいと思う人もいるだろう。仕事仕事でやりたいこともできないままできたので、最後はやりたいことをしたいというのもあるだろう。

人さまざまだが、毎日の生活に明け暮れて、残された、限れた時間を自由に使うことのできないことも多い。自由にならないのをしょうがない、それがフツーだろうと思っているうちに、気力も体力も枯れてきて、残された時間が使える、使えないという話でもなくなって、ただ過ぎ去る時間になってしまう。なんともやりきれない。
残された時間も少ないし、多少のわがままを言ってでも、使える時間を大事にしなきゃと思う。
もっとも老いもいくと、時間が過ぎていくことに、なんの感慨もなくなってしまうのかもしれない。
2016/10/9