書き残す−ホームページへ(改版1)

拙稿『書き残すー始まり』の続きです。
思いつくままに書き始めて、ちょっとたったころ、はてどうしたものかと考えだした。いつものことで、ある状態からこうしようとするのはいいのだが、こうしようということが成った先を計画しておく習慣がない。考えがないわけはないのだが、ぼんやりしたままにしておく性質のものだと思っている。それは、計画性を言われる仕事でも同じだった。

言い訳がましいが、こうしようとしていることが、本当にできるのかはっきりしない時点で、到達できることを前提として、その先を、仮にせよ決めておくことにたいした意味があるとは思えない。到達するところが、当初目的としたところとは違うことも多いのだし、決めておいたことが自由な発想や考えの妨げになりかねない。
もし、コロンブスがインドの縛りから多少なりとも自由だったら、アメリカ合衆国はコロンビア合衆国になっていたかもしれない。新しい状況(インドではなくアメリカに着いた)に至って、そこから次の可能性(景色のようなもの)が見えてくるのであって、こうしようと思いついた(大西洋を西にいってインドに行こう)ときには次の可能性がはっきりしていない。

書くといっても、原稿用紙を持ってきて、鉛筆なめなめ書くわけじゃない。パソコンの画面とにらめっこしながら、ああでもない、こうでもないと、マウス片手にキーボードたたいて、書いては書き直していく。
書き上げた原稿をいったんフリーズして、思い出しては推敲をくりかえして、完成度を上げる。ただ上げたところで、読むのは自分だけ。自分で書いて、自分で読んで悦に入ってても、もどかしいというのか、いったいオレは何をしているんだろうという気になる。ましてや、自分では書けてるつもりでも、人さまが読めるものなのか、多少なりとも読んでよかったと思えるものになっているかどうかなど分からない。

どうしたものかと考えても、知り合いに読んでもらえないかと頼むくらいしか思い浮かばない。迷惑を承知で、口頭で話をしてから、メールに原稿を添付して、「ちょっと見てみてくれないか」とお願いしたことがある。素人が思いつくままに書いたエッセーなど、余程奇特な人でもなければ、読んではくれない。しばし、書かれていることは既に話題として話をしていることで、読んだところで新味はない。

仕事で知り合った間柄だから、似たような業界で似たような仕事をしてきた人たち、棲んでる世界も似ているし、そこから見える景色も似たようなもので、読んだところで驚くような内容はない。ましてや書いた本人も含めて、考えや思いを文章にするなど考えられない仕事をしてきたから、こんなものを書いて、いったい何考えてんだかというのが、口に出す出さないはあっても正直なところだったろう。読むのはいいが、読んでどうしろっての?まさか、評論しろって訳でもないだろう・・・。

知人連中のいう通りで、書いて、書いたものをパソコンのなかに貯めていって、それでどうする?どこかでオープンにして、できるだけ多くの人たちに読んでもらえないかという、雲をつかむようなこと考えだした。親しい知り合いにそれとはなしに話してはみたが、誰もが何を馬鹿なことを、夢のようなことをという顔だった。

会社員をしていると、ヤクザの仁義の口上ではないが、「どこそこ(社名)」の誰という自己紹介になる。「どこそこ」のなしで、氏名を口にしたところで口上にならない。そんなもの転職すれば変わるものだし、極論すれば、あってもなくても、「誰」という自分に何の変りもないのに、「どこそこ」のがないと、自分がない。「どこそこ」のなしの「誰」という自分で社会に直接関与できないかと思っても、余程の著名人でもなければあり得ない。

四十もなかばを過ぎたころから、この「どこそこ」のをなしにできないものかと、ぼんやりと考えていた。ある日、随分前からそれを可能にするインフラが整っていることに気が付いた。インターネットが個人と社会の関わり合いに「直接」という環境を提供している。書いたものをどこかのブログサイトに投稿すればいい。

誰でも簡単に投稿できる。ここではたと考えた。簡単に投稿できるのはいいが、ブログサイトがそれなしでは社会に関与しえなかった「どこそこ」のに相当するものではないのか。簡単な投稿で、しがらみもないのだから、ブログサイトという「どこそこ」のも、あってもいいじゃないかと思う自分もいるのだが、どうしても「どこそこ」のをきれいさっぱり取りはらってしまいたい。

ちょっとした力仕事にはなるが、取りはらう方法が既に用意されていた。個人のホームページを作って、そこに掲載すればいい。絵画でいえば、描いた絵をどこかの画廊(ブログサイト)に置いてもらうのではなく、自分で自分専用の画廊(ホームページ)を作ってしまえばいい。ここまできたからには、思い切って自分のホームページを作ってしまおうと思いたった。
動画など特別な飾りはいらない。文章だけ簡素なホームページで十分。ホームページを置いておくサーバーを借りたところで年に一万円程度のものなのだが、文章を入れる箱だけのホームページに金をかけるのもしゃくにさわる。その気になれば誰でもロハで自分のホームページを持てる時代になっていた。無料のサーバーにホームページを作った。作ったホームページのurlは下記の通り。
http://mycommonsense.ninja-web.net/
固い内容のホームページには、ちょっとはずかしい「ninja(にんじゃ)」だが、ロハだからしょうがない。文章だけのそっけないホームページでもトップページには写真の一枚も入れたい。フリーサイトから手ごろな写真を使わせて頂いた。自分で撮った写真でもよかったが、そんなものなくても、作れるということが大事に思えた。

自分専用のホームページまで作って拙稿を掲載していって、また考え込んだ。この手作り感あふれたホームページが存在することを誰が知っているのか?知り合いには、暇な時でいいから立ち寄ってもらえないかとお願いしたが、立ち寄ってくれるのも最初の何回かで、誰もこない閑古鳥の鳴いたホームページにしかならない。

どうするか?わざわざ個人のホームページを作ったまではいいが、その存在を知っていただく方法がない。ブログをさけてホームページを作ったのに、存在を知ってもらえるかもしれないと、BIGLOBEウェブリブログに投稿してみた。規模は大きいが、フツーの人たち?が集まっているブログサイト。ペットの話に園芸や家庭菜園、料理に旅行、豊かな個人生活の話に混じって、妙に固いのか柔らかいのか分からないエッセー、そんなもの誰も見向きやしない。

思いつくままに書くにしても、家でじっとしていて考えるヒントがポロポロでてくるわけでもない。ホームページがあったところで、書けなくなったら何の意味もない。どうしたものかと思案していたときに、偶然、行きつけの本屋で売れ残っていた月刊誌『社会理論研究』を見つけた。
勉強しなければ書き続けられない。勉強するにも一人でゴソゴソでは限界がある。諸先輩からのご指導も受けたいという気持ちから、おそるおそる会員にならせて頂けないかとメールを送った。頂戴した返信メールに「ちきゅう座」の方がいいのではないかとアドバイスがあった。

「ちきゅう座」をみれば、そうそうたる方々の論考や主張が掲載されている。そのようなところに油職工くずれがお伺いしてもいいのかと心配しながら、会員にさせて頂いた。
かれこれ三年になる。書くという仕事などしたことないし、関係する業界にいたわけでもない。還暦過ぎの手習いに過ぎないものが、多少なりとも読んで頂けるものをと思いながら、今日(昨日というべきか?)の到達点がある。
この到達点からまた、「どうするか」が始まった。始まった「どうする」については別稿とする。これもちょっと長い。
『書き残す(3/3)ー無自費出版へ』に続きます。
2016/9/11