Root cause(根本問題)

東京の下町の飲み屋街に一辺二十五メートルほどの四角い公園がある。通りに面したところが公園の正面で、向かい合うようにしてラブホが立っている。公園の奥の向こうには電車が走っている。両脇の路地には二階建ての小さな飲み屋が軒を連ねている。
小さな鉄棒とブランコにベンチだけは八か所もある。場所柄か子供が遊んでいることはめったにない。毎朝、早いうちからどこからともなく、時間をもてあましたオヤジさんが集まってくる。ベンチに腰かけて地域ネコに餌をやる人もいれば、スポーツ新聞を読んでる人もいるが、多くは何をするでもなくゆったりとした時間が過ぎゆくのを日課にしている。たまにPETボトルを片手にお仕事のお姉さんが一服しによることもあるが、女性はめったにいない。
公園の周りはラブホと居酒屋や焼き鳥屋がひしめいている。昼間からラブホの人たちもいるが、赤ちょうちんに灯がともったころから急ににぎやかになる。

駅からラブホと飲み屋の間を抜けて歩いて五六分のところにあるからだろう、空地を公園にする際に、区が予算をケチって公衆便所をつくらなかった。公園管理のための資材置き場の小屋はあるがトイレがない。
公園を企画した担当者は、公園は昼間使われるところで、夜呑兵衛連中が公園で一杯やるなど想像もしなかった。もしトイレにとなったら、歩いて五六分の駅まで用足しに行けばいいじゃないかという言い訳がある。

辺りには場末の安い飲み屋がいくらでもあるのに、五時もすぎれば、その予算すら節約して、コンビニで買ってきてベンチで一杯の人たちが集まってくる。歩いて四五分のところにコンビニが二軒、六七分歩けばもう二軒あるから、酒でもつまみで、何時でも買い足しに行ける。コンビニは二十四時間営業だし、その気なればコンビニのトイレを借りも行ける。
このその気になればというのが曲者で、呑み始まってしまったら、誰も小用に五分歩いてとは思わない。ちょっとそこでという感じで、公園の一番奥まったところで電車を見ながらか、脇の資材置き場の裏で用を済ませてしまう。

公園の奥まったところ、特に資材置き場の裏はそれなりの臭いが充満している。周りの飲み屋のどこもが満員御礼ではない。全部とはいかないにしても、こんな公園さえなければ、いくらかは客としてくるだろうにと思う。そこに小便公園などと俗称まで付けられて、商売に影響すると文句の一つも言いたくなる。ラブホにしても、小便公園の真ん前、いくら入り易い工夫をしても、それも夕方からは呑兵衛連中の酒盛りを気にしながらでは、入ろうかと思って来たカップルですら通り過ぎる。 飲み屋のおやじが何人かで相談して区役所に行って、公園の立小便をなんとかしろ、ラブホの支配人は電話でだが、何度か同じ苦情を言った。

苦情を言われても、この不景気で税収が落ちているときに、そんな小さな公園に公衆便所を作る予算がたたない。困った担当者が、「立小便禁止」の看板をつくって、公園の奥まったところと、資材置きの小屋の横に立てた。
担当者も看板に効果があるとは思っていないが、区としては、やることはやってますで、苦情には善処したというロジックもなりたつ。そもそも立小便をする人たちの良識が問題なのであって、人びとの良識まで区としては責任を取れませんという方便もなりたたないこともない。

たかが小さな公園の立小便の話だが、似たようなことは、飲み屋街のちょっと奥まったところで、いつでもどこでも起きている。そして一見解決のしようのない問題に見える。
酒を飲む飲まないにかかわらず、小便したくなるのは動物の生理でどうにもいたしかたない。したくなるなと言われて、したくならないようにできることでもない。ここでするなと禁止されても、それを気にして、五分歩いてコンビニか駅まで歩いて行くか?行く人もいるだろうが、行かない人もいる。禁止しても行かない人がいなくなることはない。

仕事でもなんでもそうだが、止めろと言われて止められることばかりではない。口外できるできないにかかわらず、やらなければならない(正当な?)理由があれば、やった方が楽なら、やり続ける人が必ず残る。反対も同じで、やれと言われてやる人もいるだろうが、やらない方が得なら、必ずやらない人がでる。

命令やたとえその背景にある権力による恐怖のようなものから、人にやれ、やるなと強制はできても、やる、やらない理由が残っている限り、必ずやり続ける人もいれば、いつまで経ってもやらない人が残る。

フツーに考えて解決策は一つしかない。止めさせたいのであれば、止めた方が得と人たちが思う環境なり状態を提供することだけで、同じようにやらせたい、やってもらいたいのであれば、言われなくても強制されなくても、自分(たち)の意思でやりたい、やらなければという環境や条件を提供することだろう。

この、これ以上はないというほど簡単明瞭なことに、気が付かない人たちがいる。何でも命令すれば、指示すれば、規則をつくれば、強制すれば……これをしてお役所仕事という人たちもいるだろうが、どうしてどうして、ちょっと気を付けてみれば、どこにでもある。上官からの一方的な命令でことが動く軍隊では言うにおよばず、どの民間企業でも、小学校ですら、昔ながらの「廊下を走るな」はなくらない。体育会系の文化では上位下達が金科玉条だろうし、それを美しい日本の文化だと信じている御仁までいる。

見えている現象を問題として、その問題に対する解決策を講じようとするのはいいが、見えている問題を生み出しているRoot cause(根本問題)に踏み込まずに、命令や強制で解決しようとする悪習がなぜなくならないのだろう。こっちの(悪習)のRoot causeの方が気になってしょうがない。

[らっきょうの皮むき]
根本問題という日本語がどうもピンとこない。(根本)原因とか理由ならまだ分かるような気がするが、英語のRoot causeの方がすっきりしている。英語かぶれというわけでもないだろうし、そのRoot causeは分からない。
見えていることの原因は何なんだと考えて、これが原因だと特定できたとしよう。でも、その特定できた原因を生み出している原因―Root cause(根本原因)はと考え出すと、らっきょうの皮むきのような話になりかねない。皮をむいていていったら何もないというのか、最後は人の善意などという宗教じみた抽象的な話になって、なんだか分からないということも起きる。
それにしても、見える現象に右往左往して、その現象(いってみれば蜃気楼や影絵)を引き起こしているRoot causeを見ようとしなかったら、現象として現れている問題の解決などあるわけがない。
2016/9/11