弱点を捨てて優点を強化

おそらく営々と培ってきた文化のせいだと思うが、日本人はとかくプラス面よりマイナス面を気にしすぎる。なぜだろうと思って、日常の生活のなかで、そのしすぎる性格を生み出しているものを探しても、これといったものがみつからない。いろいろな要素がからみあっているからなのか、ぼんやりしていてはっきりしない。

日常生活でははっきりしないのに、学校教育に目を向けると、これじゃあ、誰だってマイナス面を気にするようになる、なってあたりまえというのがはっきりみえる。ずいぶん前から個性を伸ばす教育というようなことばをよく耳にするが、どうもお決まりの文句のようで、個性とはなんなんのかということも考えずに、お題目のように唱えているだけにしかみえない。

個性を伸ばすということは、マイナス面にとらわれずに、プラス面をもっとよくしようという教育だと思うのだが、入学試験の時点ですでにお題目と反対のことをして、画一的な教育のもとに成績もその延長線で評価している。
英国数の三教科の試験を考えてみる。三百満点で二百十点が合格のボーダーラインだったとしよう。英語が得意で七十点、国語が六十点、数学が五十点の受験生の三教科合計点数は百八十点しかない。二百十点にあと最低でも三十点の積み上げが必要になる。 この三十点を三教科のどれでかせぐのが賢明な方法なのか。
点数の積み上げ代が大きい順に並べれば、数学、国語、英語になる。積み上げ代が大きければ積み上げ易いから、積み上げ代の大きいな教科に注力した方がいい。そこから英語は五点かそこらのプラスの努力に抑えて、国語で十点、算数で二十点稼ぐ努力をしたほうがいいということになる。
賢明なる読者であれば、ここでお気づきだろう。積み上げ代が大きい教科とは、不得意な教科で、そこに注力するというのはマイナス面に注力することに他ならない。

得意な英語を抑えてでも不得意な数学の点数のかさ上げのほうがいい。受験では三教科満遍なく点を稼いだほうが有利で、得意な英語を伸ばす―個性を伸ばしてというのは不利になる。これは、将来どのような職業人として生きて行くのかに関係なくバランスのとれた―いってみれば個性のない人たちの方が受験では有利ということにほかならない。

学校教育の中心に据えられている教科の勉強、その総合で優秀な学生なのかそれほど優秀でないのかの判別をつける教育体系をとっておきながら、個性を伸ばす。ふつうに考えて、典型的な矛盾ではないのか。子供のころからそのような評価基準で判断され、教育されてきて、社会にでて、そこでまた総合職という全方位の評価体系で評価される。

ここまで弱点矯正とでもいう思考が刷り込まれれば、ふつうの人は、自分の優点を自覚して、それを伸ばそうという考え―個性を伸ばすなど考えもおよばない。社会全体がその思考の慣性のもとに動いている。そんなところで、弱点を気にせずに優点を伸ばそうとすれば、評価されないだけでなく、おかしなヤツと大勢から疎外される。

ところがちょっと後ろにひいて職業人の能力という視点からみれば、ほとんどの人が職業上必要とされる知識や能力に秀でていて、そこから遠い、たいして関係のない知識には疎いし、能力という面ではとるにたりないものしかもっていない。知識としては持っていた方がいいにしても、仕事でまったく関係のない知識はもっていようがいまいが、かまいやしない。

時間も能力も限られているから、なんでもかんでも、すべてできるわけじゃない。何かをしようとすれば、なにかをあきらめざるをえない。ということは、要りもしない、使いもしない知識や能力の向上―弱点の強化を図るより、常に必要とする知識や能力を向上する―優点の強化をはかることに専念したほうがいいということにならないか。
カニではないが、小さなはさみをいくら強化したところで、戦いには勝てない。大きなはさみをどれだけ強化できるか、そして強化したはさみをいかに上手に使うが生きてい行くための必須のことになる。優点を考えることもなく、弱点矯正に限りある時間や労力をかけたところで、戦にゃ勝てない。
2017/3/19