おもてなしと親切(改版1)

毎日のように「おもてなし」という言葉を耳にしたが、どういうわけか最近一時ほど聞かなくなった。流行の発端はオリンピック誘致らしいから、開催が近くなれば、やおら復活してくるのかもしれない。
それにしても、そんな死語になりかかった言葉を引っ張り出してきて、何を始めたのかと思っていたが、どうやら国をあげての観光産業ということらしい。分からないわけでもない。背景には見切りをつけざるを得なくなった傷んだ製造業がある。モノ造りから文化へ、そしてモノ相手から人相手へということで、響きのいい「おもてなし」と言い出したといったところだろう。

雅の響きのある「おもてなし」、なんとなく新鮮でいいが、なぜ気取らずに「親切」といえないのか。個人の経験からなのだが、見てくれや響きのいいものにかぎって、後ろに醜陋(しゅうろう)なものが隠れていることが多い。素直になれない自分が恥ずかしいが、体裁のいいものに何度も嫌な思いをしてきたせいで、どうしても一歩ひいてみてしまう。「おもてなし」、聞けば聞くほど、響きがいいだけに「親切」との違いが気になる。

日本語の知識がたりなくて、「おもてなし」の意味を間違って理解しているとは思わない。「おもてなし」にはどうしても金儲けの下心が透けて見える。何をどう格好をつけようが、金をはらってくれる客に対しての、利益を目的とした待遇のというのかサービスにみやびの響きをつけて「おもてなし」と呼んでいるだけではないのか。「おもてなし」、上流社会を思わせる体裁で観光客を呼び込みたいという下世話な商人根性をうまく包み込む風呂敷のようにみえる。
「親切」は、損得勘定抜きの、人として心情の豊かさのあらわれだが、「おもてなし」は「金の切れ目が縁の切れ目」の俗な心情に格好をつけた「ごまかし」でしかないと言っても言い過ぎではないだろう。飲み屋でもクラブでも、よく常連さんをいいお客さんということがあるが、それはわがままをいうこともない、手間のかからない客で金払いがいいからそう呼ぶだけであって、もし金払いがよくなければ、常連さんならなおのこと嫌な客で、いい客とはいわない。

海外からの観光客の多くが口をそろえて言うのは、随分前から変わることなく、「安全」に「きれい(清潔感という意味)」と「街の人たちの親切」だろう。「安全」と「清潔感」は高度成長期よりよくなっていると思うが、こと「親切」となると自信がない。
電車やバスのなかで、お年寄りや体の不自由な人たちに席を譲る「親切」がないことに海外からの人たちが一様に意外に思う。街で道を聞けば、なんとか英語で道を教えてくれる親切な日本人が、なぜか席を譲るということでは、多くの先進国に比べて明らかに不親切だ。

海外からの人たちに対する「親切」、すべてでないにしても、一部は欧米人に対するコンプレックスに由来しているように思えてならない。アフリカ系の人たちやアジアからの人たちに対する蔑視、あるいは説明しにくい恐れのような気持ちをぬぐいきれない人たちも結構いる。白人に対する羨望の念の裏返しの「親切」と同じ「親切」が、白人以外の人たちに対してどこまであるのか。「どこまで」という言い方をされて、奇異に感じる人がどれほどいるのか。日本の文化を誇りたいのであれば、「おもてなし」などという前に「親切」についている人種差別の注意書きを取り去ることが先だろう。

海外からの観光客が、ここを改善してもらえたら、もっと滞在が楽だったというのにWi-Fiの普及がある。スマホが日常の必携になっているのに、街に一歩でるとスターバックスなどのコーヒーショップに入らなければインターネットにアクセスできない。コーヒーショップなどではWi-Fi環境を提供したところで、コストは客に提供する飲食物の価格に転嫁できる。言ってみれば目には見えない利益者負担で、客の負担で提供される「おもてなし」と同じ種類のサービスでしかない。
特定の店の中ではなく、街でWi-Fi環境を提供しようとすれば、客ではない人たちも使うから、世知辛いことを言えば、環境を提供する側がコストを負担しなければならない。

「おもてなし」はいいが、そのまえにまず、分け隔てのない「親切」だろう。「親切」のない「おもてなし」、誰がいくら雅の格好をつけたところで、下世話な金儲けの合言葉にしかならない。
2017/5/14