代案なしの批判(改版1)

代案がないのに批判するな、批判するなら代案を出せという人たちがいる。もっともらしく聞こえるが、批判封じ以外のなにものでもない。批判を抑圧した社会が陥る閉塞状況を考えれば、批判は奨励されこそすれ、抑圧されるべきではない。批判のないところから次の時代への進化がないことを思えば、どのような批判であっても、ないよりあったほうがいい。批判は批判として、受け止める寛容な社会のほうが将来がある。

もっともらしい理由をならべたところで、批判を受け付けない姿勢の背後には、権力はもっているが、職責をまっとうする意思や能力に欠けた人たちの保身がある。いくら体裁をつけても、そんな理由、己の無能が社会の進歩を阻害していることに気づかないか、気づいても自分(たち)の保身や利益ために社会を停滞させる犯罪者の「ごたく」にすぎない。

なかには、批判する人を素人と玄人に分けて、批判を許容するかしないかという話をする人がいる。その話どう聞いても、どうでもいい批判までは許しても有意義な批判を抑圧する馬鹿話にしか聞こえない。プロ野球を見ていて、なにやってんだというプレーがあれば、多くのファンがなにやってんだと批判する。自分では真似ることすら考えられない素人がプロの仕事を批判する。 この素人の批判はいいが、仕事で当事者としてことを先に進めなければならない立場の人が、代案なしに現状を批判するのは、当事者としての責任と能力の欠如の現れだ、ということから玄人――の代案なしの批判は認めないという。

仕事も組織も単純だったころならいざしらず、誰がどこまでの当事者という線引きも難しいし、厳密な意味で当事者であるかないかを言い出したら、門外漢か横丁の評論家のような批判しかなくなってしまう。原発の安全性について素人がわかる範囲はしれている。有意義な批判は専門家にしかできない。素人の批判しか認めない?専門家の批判を恐れる利権屋の言い草にしか聞こえない。
当事者であろうがなかろうが、批判というものは、自己批判も含めて、本質的に第三者の目でみてするから意味があるもので、批判する人の資格をうんぬんすれば、健全な批判ですら聞けなくなる。批判がでてこないようにするのがいいのか、批判が出やすくするほうがいいのか?疑問の余地などありようがない。

批判する人以外のすべての人が、批判の内容をばかげたことだといって、批判する人を疎外するのはよくよく考えてから、それも穏やかにすることで、はじめて許容されるかどうかという性格のものだろう。時代を画した新しい視点や考えは、しばしば一握りの人たちに理解されるだけで、大勢は理解しようともしないで、社会的に葬ってきた歴史がある。今では誰もが常識と思っている地動説も大陸移動説も進化論も言い出した人は命がけだった。

「明日の主流は今日の異端」という名言がある。仕事に関することであれ、社会に関することであれ、現状を問題である、改善しなければならないと考えるなら、自分では解決案も手段も何もなくてもかまわない、健全な批判として公言した方がいい。自分一人ではどうにもならないことでも、どうにかする考えや能力を持っている人や人たちがいるかもしれないし、ときには何人か、いくつかの組織が協力すれば、解決や改善にむけた考えがでてくる可能性がある。
問題と気がついているにもかかわらず、大勢の和を乱しかねないから、集団のなかで一人浮き上がりかねないからと口をつぐんでいたら、問題がぬきさしならない状態になったとき、気がつかなかった人より罪が重い。

代案なしに批判するのは間違っていると主張する人たちは、ある意味、一般常識や能力で何とかなる仕事にしか関係したことのない「無知の幸せ」を地でいく程度の人たちなのではないか。その程度の人たちだからこそ、まとも議論になれば不利と考えて、自分(たち)の立場と利益を守るために、「代案がないのに反対するな、批判するなら代案を出せ」と主張しているように聞こえる。
国のレベルから民間企業まで、それなりの立場にいる人たち――首相や社長から出てくる似たような主張。聞けば聞くほど、無知と無能をさらけだしているようにみえる。
2017/6/18