誰?、それ(改版1)

ボストンから帰国して一年ほど経ったころだから、二〇〇六年だったと思う。オランダのX線分析装置メーカの日本支社でマーケティングをしていた。そこに映画会社の人から電話が入った。映画のロケをさせてもらえないかという依頼だった。海外支社で事務所も狭いし、とても映画のロケなど受けようがない。
以前の会社の一階のホールでよく連ドラの撮影があった。連ドラまでなら、たいした撮影にならないが、映画となると、たかがワンシーンでも百人からのスタッフがさまざまな機材を持ち込んでの撮影になる。丸一日みんなの仕事を止めなきゃならない。マーケティングの一存では決められない。ビジネスに何らかの好影響を期待できるのならまだしも、こんなことで社長にお伺いたてるのも気が引ける。丁重にお断りした。

数日してまた電話がかかってきた。「なんで、こんなちっちゃな海外支社に言ってくるの?」「日本の大手なら実験室も大きいから、撮影も楽だし、受け入れる側も人員に余裕があるし、そっちの方がいいんじゃない」同業の実名をあげて、「誰が考えてもそう思うでしょう」と言って 電話を切ろうとした。ところが前回とは必死さが違う。「その会社にも、もう一社にもお願いしたんですけど、どうしても受けてくれないんです」「できれば、そちらにご挨拶にお伺いして、きちんとお話をさせて頂けませんでしょうか」必死さに断りきれない。市場開拓に走り回ったとき、取り付く島もないというのを散々味わってきたこともあって、逆の立場で似たようなことはしたくないという気持ちがあった。
電話で話すのに疲れて、「くるなら、どうぞ」「話は聞くけど、期待されても……」「事務所も狭いし、人もいないし……」

いかにも業界の人というイメージ通りのラフな格好のお兄さんがきた。事務所で話もなんだし、断るにしてもコーヒーぐらいはと、通りの反対側にあるホテルのキャフェテリアにいった。席に着くなり「バブルにごーという仮題の映画なんですけど、アベxxxとヒロxxxの競演で……」ゆるキャラの風貌で話しは遅い人なのに、切羽詰っているのがわかる。
コーヒーを飲みながら、話の続きを聞いた。「アベxxxとヒロxxx、いいでしょう?」ニコニコしながら、これでロケを受けないわけがないと、自信の口ぶりだった。「バブルにごーって、ちょっとクサクない?」「そうですかね、まだ仮題ですから、変わるかもしれません」受ける気などないし、芸能界の人だからということで気を使う気もない。また「アベxxxとヒロxxx、いいでしょう?」まるで水戸黄門じゃないが、この名前をだせば誰もがひれ伏すとでも思っているのではないかという口ぶりに、なんでそう思うんだろうって……。
「ところで、そのアベなんとかというのは誰なんですか?」「えぇ、阿部寛ですよ」「そのアベヒロシって人、なんなんですか?」「知らないんですか、人気の……」「もしかして、広末涼子は?」「誰、それ?」

「しずまれ!静まれい!この紋所が目に入らぬか。ここにおわす御方を、どなたと心得る。 こちらにおわすは、先の副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ。頭が高い。控えおろう」ここでお決まりの音楽がながれて、筋書きとおりに話が進むはずのところに、誰かが「その水戸なんとかっての、誰?」って言ったようなものなのだろう。
お兄さん、なんとも言葉が出ない。あきらめて帰っていった。これで終わったと思っていたら、一週間もしないうちに、また電話がかかってきた。「なんとかお願いできませんか?あちこち当たったんですけど、御社しかすがるところがないんで」

二〇〇〇年ころだったと思うが、売り込みに若い営業と一緒にでかけた。山手線のなかで立っていて、雑誌の中吊り広告が目にはいった。なんだかわからないが、「キムタク」というのをよく目にして、いったいなんだろうと思っていた。目を中吊りに向けて、若いのに訊いた「あの、キムタクって、何んだ?、知ってる?」キムタクのイントネーションが可笑しかったらしい、「えぇ」と噴出しならが、「キムタクしらないんですか?」知ってりゃ訊かない。大笑いしながら説明してくれた。その後がいけない。回りの人たちが二人の会話を聞きながら、笑いをこらえているのに気がついて、それが面白いのだろう、前の二枚、後ろの二枚、雑誌の中吊り広告から何か見つけては、「xxx知ってます?」「しりっこねぇだろうが……」

何日もしないうちに事務所中の笑い話になっていた。仕事で関係することもない若くもない女性社員までが、わざわざブースにきて、「yyyさん、キムタク知らなかったんだ」こっちのおかしなイントネーションまでまねしていた。「ねぇねぇ、aaa知ってる?」「そんなもんしりっこねぇーだろうが、……」といいながら、確か電車のなかで聞いたような気がする。そんなもの聞いたことろで電車を降りる前に忘れてる。「おまえたちが、ポール・スウィージーやオスカー・ランゲを知らないのと一緒だ」と言いたいが、言ったところで、知らないことになんのマイナスの感覚もないどころか、そんな名前を言い出すこっちがおかしいとしか思いやしない。
うっとうしいが、不思議と馬鹿にされている感じはしなかった。逆に知らないことに、お前たちと一緒にされたら迷惑だという、眠っていた自負みたいなものまで目覚めさせられた。

似たようなことはいつでもどこでも起こっている。知ってる知らないが、社会全体から見たときに、どれほど重要な人なのか、どうでもいい人なのかには関係ない。どんな立派な学者でもどんな有名なタレントでも、地名でも社名でも、知っているからなんらかの重み(ときには否定的な)を感じるのであって、知らなければ、ただの人、ただの固有名詞でしかない。
「えぇー、日本銀行?三菱銀行とか三井住友なんてはよく聞くし、あちこちに支店があるけど、日本銀行なんて聞いたこともないな。日本なんとかっての、日本IBMとか外資が多いし、それどこかのハゲタカファンドの日本支社じゃないのか。おい、おまえ、そんなのどっかで見たことあるか?」って話だってありかねない。

世界的に知られた高名な学者であったとしても、知らなければ、ただのオヤジさん。知ったところで、その人の影響下にいるわけでもなし、何を教えてももらったわけでもなければ、先生と呼ばなければならない立場でもない。お互い独立した対等な一個の個人でしかない。礼がどうのといったところで、知らない人には、ただ「誰、それ?」だろう。
2017/2/12