イルミネーションに思う(改版1)

何時のころからかクリスマスのイルミネーションが年明けまでのイルミネーションになった。なかには季節感もなくなって、一年中ついているものまである。白熱電球の五分の一程度の消費電力。放熱できずに高温にでもならなければ、いつ切れるかという心配もない。省エネで扱いやすいLED照明が、施設と呼んでもおかしくない巨大なイルミネーションを可能にした。

六本木で、まるで初詣のように人の列に混じってとろとろ歩いて、やっとイルミネーションが見えるところにたどりつく。イルミネーションを目にして、衝撃に近い感動がある。並んだかいがあったとうれしくなる。人の流れに沿ってイルミネーションを見ながら歩いてゆくと、きれいとしかいいようのない作りに感動が続く。
それでも、歩いているうちに見慣れてしまうからなのか、少しずつ感動が薄れて、こんな大きさの物を作るのは大変だったろうなと思いだす。大変な作業をして、ここまでやって、半月やそこらで撤去しなければならない。そうそうに撤去する展示会の小間より簡単な作りだから、作業する人たちの多くはアルバイトだろうが、あまりの大きさに、投入される人工(にんく)を思ってしまう。

そんなことを思い出したとたん、ディズニーランドに行ったときと同じで、感動から醒めて楽しめなくなる。
十年以上お世話になったアメリカの最大手制御機器メーカの製品がディズニーランドのあちこちで使われていた。ジャングルクルーズに乗れば、ここにきたら、カバが顔を出す。象がいる、鹿が、インデァインが……、決まったように決まったことが起きるように制御プログラムが作られている。それは客にどんな印象を与えるのか、感動を与えるかというだけでなく、予算も含めてすべてが計算づくの造りものでしかない。計算づくの制御プラットフォームを提供する側に一度でもまわって仕掛けを知ってしまうと楽しめなくなる。何を見ても、何に乗っても制御システムが頭に浮かんでくるのを止められない。見ているものを作っている背景が透けてしまう。

それでも、ディズニーランドのように物を動かすとなると、構造物の強度計算をしなければならないし、動いた位置を検出して制御装置にフィードバック信号を送らなければならないから多少は自動制御らしくなる。コタツでも温度をセンサーで検出してフィードバックをかけてヒーターをON/OFFしている。ところがLED照明の点滅だけなら、コタツの温度調整より簡単で、フィードバックなどいらない。あまりにも単純で制御というものでもない。

「ねぶた」祭りで引き回される山車では骨組みのうえに張りぼての造形物を作りあげるが、LED照明を使ったイルミネーションでは、造形物などいらない。張りぼてにせよ、ものとしての造形物はいい加減な骨格みでは作れない。それが、イルミネーションなら、照明の配線を這わせれば展示物ができあがる。後は演出を引きだすべくPLC(プログラマブル・ロジック・コントローラ)か類似の制御装置のアプリケーションソフトウェアでLED照明のON/OFFを制御すればいい。LED照明をならべて、点滅を制御して、巨大な光の構造物もどきを作って来場者を感動させる。
キーは演出で、ここにデザイナー(呼び名?)が活躍する場がある。そこには人が歩く通路からみて、このくらいの速度で歩けば、このあたりをこう見て、ちょっと先にすすんで、こんな風に見て、こんな風に感動して、その先には前の感動とは違う感動をこう与えてというデザインというのか設計がある。ただ何があるにせよ、光だけのちゃちな作りもの。

光で観客に感動を与えるということでは、映画も本質的にはイルミネーションと同じで、直接の光なのか映像情報なのかの違いでしかない。どちらもすべてが作りもの。それでも、映画となると、製作には膨大な予算と時間がかかる。配線して制御すれば終わりのイルミネーションとは違う。そのせいかどうか分からないが、映画では乗せられているなどと感じたこともないのに、イルミネーションにはうまく乗せられているという、うれしくない気持ちがつきまとう。映画製作とは違う、イルミネーションにはイルミネーションの難しさがあるのだろうが、それにしても、ただの照明の点灯、あまりに原始的な仕掛けで、造形物に比べればコストというコストもかけないで、観客を魅了する。感動が大きいだけに、ただの照明だけで、たわいもなく目論見にどおりに乗せられているのかと思うと、感動を素直に楽しめない。

作りものの光にたわいもなく乗せられて、それがイルミネーションならまだしも、どうも社会や政治……ぽっと見には輝いているものが、もしかしたらというより、たぶん多くがLED照明をつかったイルミネーションのような、中身どころかろくに骨組みもない、安作りのまがいものなのかもしれないと思い出す。
2017/3/19