日記をつける?(改版1)

昔のことを思い出そうとしても、妙に鮮明に覚えていることもあれば、ぼんやりしてかたちをとどめないことも多い。饅頭にたとえれば、覚えているのは甘かった「餡」までで、生地や皮など細かなところがはっきりしない。印象が強かったことは覚えていても、それが七十九年だったか八十年だったか、確か小雨が降っていたと思うのだが、九月だったか十月だったかということになると、とんとはっきりしない。まあ、あった事はそこそこ鮮明なんだし、いいじゃないと思いながらも、もしマメに日記でもつけていたら、もうちょっとはっきりするのにと思う事がある。

若いとき、と言っても働き始めて何年もたってからだから、二十代のなかばから三十半ばなのだが、なんどか日記を付けようと意気込んで始めたことがある。意気込みだけはあったが、なんどやっても三日坊主に毛の生えた程度で終わった。
還暦も過ぎて、あと何年もしないうちに、ちょっとしたこと、覚えているはずのことですら怪しくなるのかと思うと、いい年をして日記でもつけようかと思ったりする。何度か思ってはみたが、思うまでで始めやしない。性分に合わない無理は続かない。何をしたところで、三日坊主で終わって、イヤな気持ちになるのがせいぜいだろうと思いとどまる。

日記をきちんとつけている人の話を聞くたびに、どうしたらそんなに几帳面になれるかと不思議の思う一方で、自分のだらしなさに、ちょっと暗くなる。そして、なんでなんだろう、どうして日記をつけ続けられないのか、と前にも考えたことをまた考える。考えたところで、何がどうなるわけでもないのに考えて、そのたびに同じ結論―自分でも半分以上呆れてしまう、自分を都合よく納得させるための説明がでてくる。日記をつけるための手間隙と、つけて何が得られるのかを考えると、どう考えてもかかる手間隙のわりにたいしたものが得られない。人様は分からないが、少なくとも自分には日記をつける意味があるようには思えない。

毎日毎日、これといった記録しておいた方がいいことが起きる訳でもない。昨日と同じというか似たような今日、先週から今週になって何がどう変わったわけでもない。書こうとすれば、自分の性格から、何もないのに書くことを探してまで書こうとするだろうし、そこまでしてという気がする。そんなもの後で読んで、何かの考えるヒントになるわけでもないだろうし、と都合のいいように考える。

それでも、なにがあるわけでもないふつうの生活のなかにも、それなりにイベントいうのかフラグを立てておくかということもある。いい悪いのでもない、ただの事実としてのこともあるが、そこは人間、どうしてもよかったことやうれしかったこと、イヤな思いや腹をたてたことを書くだろう、と思う。

思い出は人さまざま。全ての人が自分の思い出を持っている。ただ、巷の思い出の話を聞くと、「思い出」という言葉には、本質的?に明るいといのか、楽しかったときという響きがある。自分自身をネグラとは思わないが、昔のことを思い浮かべたときにでてくるのは、楽しかったことやうれしかったことより、イヤな思いや腹を立てたことの方が多い。他人(ひと)のことは分からない。でもよかったことよりイヤだったこと、あのときああしてたら、あんなことをしなければという、反省というほどことでないにしても、よくなかったことの方を思い出す。いくら記憶をたどっても、楽しかったことより大変だったときの記憶の方がはるかに多い。

まさか、後で読んでよかったと思えることに絞って、イヤだったことを避けるように気を使って書くもんでもないだろう。特別気にすることもなく、そのときそのときの起きたことや、思ったことを書いていったら、イヤなことの記録の方がよかったことの記録より多い日記になる。あとで読んで、イヤだと思ったときの気持ちをもう一度味わうことになる日記をつけて、反省に反省を繰り返すようなことをしたら、それでなくて信頼していないというか、いつも疑いの目でみている自分がもっとイヤになる

イヤなことばかりの記録だったとしても、個人の記録というか歴史にはそれなりの意味があるかもしれない。そう思うこともあるのだが、それはあくまでも個人の記録。人様に差し出すものじゃない。それでなくても自分を好きになれないものが、わざわざ過去の好きになれない、というか嫌いに近い自分を見に行くための記録を手間隙かけて残すか。人様は知らないが、不精な性格でよかったと思う。
2017/4/2