現場も見ずに古文書で(改版1)

すでに勤労者の四割近くが非正規雇用で貧困が深刻化している。経済成長が望めないなかで、非正規雇用の人たちが、企業が利益を捻出するための、しわ寄せの受け手にされている。テレビや新聞で見聞きはするが、たまにパートで生計を立てている知り合いから話を聞くぐらいで、非正規雇用の人たちの日常ついてなにも知らない。
一緒に仕事をしてみたいという気持ちはあるが、踏ん切りがつくのつかないのというより、しないほうがいいという気持ちが強い。年も年だし、事務仕事に明け暮れてきたものが、現場作業にでも入ったら、それこそ足手まといになったあげくに、一ヶ月もたないかもしれない。そこにいる人たちにしてみれば、個人の関心で入り込んできた部外者か観察者でしかない。人様の生活の場に土足であがりこんでいくようなもので、よほどの覚悟がなければしちゃいけない。あれこれ考えているだけで、なんの行動も起こせない自分が情けない。

なにかできることはないかと思いながら、非正規労働者を支援する団体の事務所で開かれたセミナーにでかけた。テレビや新聞の情報はいいが、そこからは暑や寒さも臭いも、体感しようにもできない。仲間になれなくても、外野からでも状況を少しでも知りたい。何かわかれば、そこからどうするか、考えるきっかけが得られるかもしれないと期待していた。

セミナーは有名私立大学の準教授の話で始まった。最初何を話し始められたのか分からなかった。それというのも先生の話は、戦前の富山の米騒動と関東大震災のときに起きた朝鮮人虐殺―亀戸事件について、先生の言葉でいえば調査研究してということなのだろうが、執筆された本の紹介だった。セミナーが謳っていた論題と無関係とはいわないまでも、大きく外れた話であるに違いはない。そんなことに気がつかない知的レベルとは思えない。今起きている非正規労働者のおかれた問題に著書のなかでの論旨を結び付けようとするのはいいが、何をどうしたところでつながるわけもない。聞くに堪えない話だった。

あまりに論旨のずれた話に、驚きを通り越して、あきれるやら腹が立つやら、なんといいっていいのか言葉をさがした。それなりの立場にいる研究者たる人が、悪化し続けている社会問題を目の前にして、何のフィールドワークもなしで、古文書を漁るようなことをして、それを出版までして……。と考えていたら、順番が逆だったことに気がついた。順番が逆で、セミナーを利用しようとしているとでも考えなければ、おきたことの説明がつかない。
もしそうだったら、間違いなくそうだろうが、セミナーに出席された非正規労働者の方々や非正規労働のありようを改善しなければと思って集まっている人たちに、なんとも失礼な話ではないか。人を馬鹿にするのもいい加減にしろとどなりたくなった。

研究者でなくても、これは常識だと思うのだが、非正規労働者の苦境や労働の実態などの問題は、その場に足を運んで、働いている人たちの生の声を聞かなければ、たとえ一部にしても分からない。富山の米戸騒動や朝鮮人虐殺のように過去の事件であれば、十分ではないにしても文献を精査してそれなりの論証も可能だろう。しかし、現実に今、目の前で日々進行していることを、文献を通して理解するなど、したくてもできない。同時代に起きていることは、自身が歴史の証人としているだけで、検証を経た文献などない。後世の人たちが資料として参考にしてくれるであろう歴史資料を残す立場にいるという自覚がなければ、現在進行形で進んでいる事象は扱えない。

いくつものセミナーで、まったく同じ研究姿勢で先人の研究結果の紹介でしかない話を聞かされた。面白いことに、話はどれも、日本で現在進行形で進んでいる社会問題を避けて、欧米の研究者の報告書(過去)をあちこちでかいつまんで、いかにもご自身の研究成果のような態度での発表だった。素人目には研究者というより解説者にしかみえない。
日本で起きている、現在進行形の問題を課題としようとしても、先達の残した引用しえる文献もないから、フィールドワークをする意思も能力もない人たちは手を出せない。いきおい海外の情報をもとに机上の研究(?)になる。

独自の課題を設定して、独自のフィールドワークに基づいた研究しなければという意識が希薄すぎる。欧米で構築された人文科学の成果を手っ取り早く取り込みたいという稚拙な精神構造からなのだろうが、課題も文献から拾ってきて、文献漁りの調査研究があって、薄い紙一枚の知識の積み重ねにしかならない論考を積み重ねて終わる。
どこかの誰かの意図が隠れているかもしれないデータを真に受けて、あっちのデータとこっちのデータを組み合わせて、それをご自身の実績だと思い込んでいる。そんなことをすれば、どこかの誰かにとって都合のいい結論にしかならない可能性がある。後になって気がついたら、ときのプロパガンダのお先棒を担いでいたなどということすら起きる。七十年代の『世界』に掲載された北朝鮮の主体思想や社会全体を持ち上げた論文などお先棒のいい例だろう。

現場に行けばなんでも見えるとは思わない。ベトナム戦争中にベトナムにいては個々の局地戦までで、ベトナム戦争の全貌は分からない。全体を把握しようとすれば、ペンタゴンにいるしかない。しかし、それではデータとしてペンタゴンにあがってきたものからしか分からない。あがってきたデータがどれほど忠実に戦場の現実を表しているのかを検証するには、どうしても戦場の生きる死ぬの現実の実体験がかかせない。実体験に培われた能力なしで、データからだけでたいした意味のある結論が出てくるとは思えない。

社会問題の現場に足を踏み入れることもなく、どこかで入手したデータを机の上にならべて研究、そんな研究しかしようとしない人が、非正規労働者として今そこで呻吟している人たちに何を言えるのか。考えたことがあるのだろうか。研究者としてより人として恥ずかしい。
2017/2/26