ガイドブックはそこそこに(改版1)

アメリカの制御機器屋に転職してからは、仕事で飛び回ることが多すぎて、とてもプライベートで旅行にという気にはなれなかった。ゴールデンウィークや夏休みでも、できれば近間でのんびりしていたい。いつの時代でもそうだろうが、そんなオヤジの気持ちより家族の都合が優先する。いつも何もしていないという負い目もあれば、休みのときぐらい世間並みのというプレッシャーもある。小学生の子供でもいれば、どうしても、えぇーいと自分にかけ声をかけて、泊りがけの小旅行に出かけることになる。
かけ声をかけたところで、仕事でもないのにしっかり日程を立てる気にはなれない。子供を二人も連れた二泊三日か三泊四日の旅行なのに、いつも行き当たりばったりだった。その日に泊まる宿が決まっていればいい方で、なにも決めずに出かけた。さすがに海外となるとフライトの予約もあるし、宿泊先も予約してでかけたが、国内で車での移動だったら、どうにでもなるとたかをくくっていた。生来の不精と変な神経質がからみあった結果なのだが、今日はここに行って、明日はここに、明後日はあそこにと決めると、決めたとたんにスケジュールが気になってしょうがない。

仕事でならきちんと日程を立ててから出かけるし、万が一出先でフライトが飛ばないなどということでもあれば、即関係者や宿泊予定のホテルに連絡して日程を調整する。でもプライベートの旅行では、何があったところで、そんなバタバタはしたくない。万が一、日程がずれたらずれたでいいじゃないか。宿泊予定のホテルに電話して日程の調整など、考えただけでもうっとうしい。そもそもプライベートな自由な時間を勝手気ままに、なるようになってで過ごすのがバケーションというものだろうと、ちょっと意固地にもなっていた。

観光地ではいろいろな人たちと出会う。忙しそうにしている若い人たちもいれば、騒がしい家族連れもいる。ゆったり歩いている見たところ年配のご夫婦もいる。観光シーズンだから、どこに行っても混んでいる。周りにどのような人たちがいようと気にはしないのだが、見る限りでは、誰も彼もが何らかのガイドブックを手にしている。昼食に入った店でもガイドブックを開いて話をしている人たちがいる。あっちでもこっちでも似たようなガイドブックを目にする。今日日であれば、グループの全員がそれぞれスマホで情報を漁って、見つけた情報で次になにをするかという話になるのだろうが、そんな便利なものはなかった。
ガイドブック(スマホ)で与えられた選択肢のなかから、どれを選ぶかという違いでしかない限られた範囲で人々が誘導されているように見える。

小さな旅行といっても、いつでも来れるわけでもないから、できるかぎり有意義なものにしたいとう気持ちが働く。せっかくにきたのに、ここはというところを見落としてしまうことのないようにと、しばし仕事以上に真剣に事前調査をして、しっかりスケジュールを立ててという気持ちも分かる。でもそこまでしたら、決まったことを決まったようにしなければならない仕事以上に神経が張ってしまうのではないかと心配になる。かかる費用と時間から最大の効果をと思ってはいいが、朝早くから晩まで日常生活より厳しい時間管理をしなければならないバケーションとは一体なんなのか。

計画病とでも呼んでいいか思うのだが、事前に調査してえた確たる情報をもとに、何をどうするという計画をたてないと気がすまない。小旅行なら、そんなこともできないこともないが、人生いつも事前に必要とする情報が得られるわけでもなし、いくら計画したところで、思わぬとことから予想外のことが起きる。予想外の何かあるたびに、その何かに対応するための情報を探して、またびしっとした計画?
そんなことを繰り返して、有意義な旅行(人生)をと思うのはいいが、それ、誰かがなんらかの思惑(善意?)で用意した情報に基づいて、自分で立てたつもりになっている計画に自分をしばってということにならないのか。

情報が溢れているというのか、誘導されているといったほうがいいのか、若い人たちに至っては、人生の先の先まで見えてしまったような生き方をしているように見える。ガイドブックという沿うものがないと、どうしていいのか分からないのではないか。
旅行ガイドブックならまだしも、人生のガイドブックなんざ、もしあったにしても、すべての人に何種類かのガイドブック?じょうだんじゃない。みんなそれぞれ違う。人生も人それぞれ。そんなもの当てにして、間違いの少ない人生?どこからそんな発想がでてくるのか不思議でならない。なんとかしようと、状況に適応して生きていくのに、ガイドブック?あるのは状況とこうありたいという自分の意思じゃないのか。
ガイドブックか何か沿えるものを探して、探し当てたものに沿っての旅行も人生も、それが自分の旅行なのか人生なのかって考えしまう。
2017/4/23