国語教育―悪文解読(改版1)

七十二年に高専を卒業して、工作機械の技術屋を目指したが、まさか仕事で英語を使うことになるなど考えたこともなかった。入社して三年半ほどたったとき、輸出業務を任せている子会社に出向になった。海外拠点からの技術的なクレーム処理が主な仕事で、英語はできるにこしたことはないが、必須ではなかった。それが二年後にはニューヨーク支社に飛ばされて、必須どころか英語の日常生活に放り込まれた。二十五歳で赴任して還暦すぎまで、好きでもないというより嫌いな英語を勉強し続けてきた。

長年英語を勉強してきて、気がついたことがある。気がついたときにははっとしたが、素人だからで、なんらかのかたちで、英語にかぎらず外国語に接している人たちには常識だろう。「英語を勉強するというのは間接的(という以上?)に日本語を勉強することになる」

たとえば、誰かが書いた文章のなかに「認める」がでてきたとき、その「認める」を英語でなんと訳すか?辞書を引けば、訳語として、admit、acknowledge、confess、allow、recognize、……が出てくる。辞書に載ってるのだし、このなかのどれかなら訳語として間違いないだろうと思いかねない。ところが日本語の「認める」が、はたして状況に合っているのかと考え出すと、ことはそう簡単ではない。ちょっと思いつくだけでも、acceptもあればagreeもconsent、assent、permit、aware、perceiveもあるし、簡単にnoticeでもfind、seeでもいいかもしれない。ときにはunderstandの方がいいかもしれないし、comprehendとすべきかもしれない。場合によってはconcedeのほうがいいこともある。
どれがいいかは状況しだい。何をどのような立場で誰に向かって、何を伝えようとしてなのか、期待してなのか要求しての文章なのかによって最適な言葉が違ってくる。英語に翻訳する段になって、書かれている日本語がほんとうに適切なのかと考えだす。

このいくつもの英単語を見て、なんだ英語の類語辞典(Thesaurus)を見ればいいじゃないかと思う人がいると思う。それで十分なこともあるだろうが、英語の最適な言葉を捜そうとすれば、まず日本語で「認める」という言葉が最適なのか、別の言葉にしなければならないか、したほうがいいのかを確認しなければならない。文語としてぱっと浮かんだのが「認める」というだけで、別の言葉の可能性を精査することなく使っていることが多い。状況によっては、「認める」ではなく、「確認する」や「理解した」か「分かった」、「気がついた」、あるいは「承認する」や「許可する」の方がいいことがある。
日本語でその状況にあった言葉が思いつかないと、英語の類語辞典をいくら引いても、どの単語がいいのか判断できない。判断するには、日本語できちんと考えられていることが前提になる。この日本語のところで考えが整理できていなければ、字面での英訳になる。そんなことをすれば、真意が伝わらないどころか、誤解されるかもしれない。場合によっては、知的レベルを疑われる。

母国語でしっかり整理されていなければ、あるいは整理する能力が十分でなければ、翻訳された英語という前に日本語ですら、不明瞭な、しばし誤解を招きかねない文章になる。英語に限らず外国語を勉強すると、否が応でも日本語を整理する習慣がつく。この習慣がつかない人は英語を学べないというより、学ぶための必須の前提―日本語で考える基礎訓練がなされていない。

製造装置や検査装置の取扱説明書や保守説明書を英語に翻訳することで禄を食んでいたことがある。どれも翻訳する前に原文を日本語で一度二度精査して書き直さなければならなかった。よく技術屋が何を言っているのか分からないという声を耳にするが、それは、日本人全体にいえることで、技術屋に限ったことではない。言葉で考えを精査しなければならない翻訳者の目には、どちらの日本語の能力も五十歩百歩にしかみえない。

翻訳しうる程度にまでロジックが通っていない日本語が多い原因は国語の初等教育の欠陥にある。国語教育で何がなされているかをざっと思い浮かべればいい。漢字が書ける、読める。四文字熟語を書けて読めて、でその先に何がある?作文と長文読解にいたったときに、国語教育の奇形化がはっきりする。教育が文学に偏りすぎているという以上に文学にしか関心のない人しか国語の教師にはならないのだろう。文学に偏った国語の初等教育では教育の目的がずれる。何にもまして、まず伝えなければならないことを、できるだけ誤解されることのない文章で書くことを習得しなければならないのに、感情の機微や感動を与える文章を求める気持ちが先にくる。事実が事実として伝えられることによって、感動する内容が伝わるのであって、初等、中等教育の段階で、内容に関係のない文章のかたちや言いまわしに感動を求めるのは間違っている。

国語教育の奇形の典型的な例が入試問題の長文読解だろう。あんな分かりにくい文章を読んで、しばし小手先の器用さのようなものから、作者は何を言わんとしているのか、作者の気持ちはどこあったのか……。社会にでて、そんな分かりにくい文章を書くことで禄を食むのは国語の先生か、奇形化した国語教育を飯の種とする人たちだけだろう。その人たち、言い過ぎを恐れずに言わせていただければ、言語で考える基礎能力を培わなければならない若い人たちの母国語を奇形化することで禄を食んでいる社会的な犯罪者集団だろう。入試の長文読解は「読解」ではなく、「解読」に近い。誤解を招いてあたりまえの文章、それはもう「悪文解読」と言い換えた方がいい。
一歩後ろにひいて考えてもらいたい。内容の分かりにくい、何度も読み返して、こういうことが言いたいのかと想像しなければならない長文読解を入学試験に使っているということは、国語教育においては、そのどうしようもない、分かり難い長文をあるべき姿としていることの証左ではないのか?

母国語である日本語で物事を理解して整理して、整理した結果をわかり易い、誤解されにくい日本語で伝える能力を培えない教育とはいったいなんだろう。人は言語で考える。その言語があやふやだったら、考えたこともあやふやにしかならない。そのあやふやにしかならない考えを、あやふやな日本語で、感動を求めた文章にする。これが母国語の教育のあるべき姿なのか?
国語教育をまともしえない民族が自国の文化をどのようにして継承してゆくのか。小学校で英語教育を強化するという話を聞くが、 外国語を学ぶ前に日本語をしっかり学ばないと、英語がどうこうというまえに日本語という母国語での日本人の思索能力の問題になる。

だらしのない奇形化した国語教育では、日本語を勉強しきれないから、英語を学ぶことを通して日本語を学ぶことになる。困ったことに、官製英語教育では、実用にたえる英語を習得できない。奇形化した国語教育に習得しようのない英語教育から事実を事実として、誤解の可能性を極力排除した文章で書く能力が培えるとは思えない。ことは言語による意思疎通にとどまらない。日本人の思索能力……考えてゆくと、恐ろしくなる。
2017/4/9