食べてるのを覗くな(改版1)
フラッシングの日本食料品店の隣にすし屋と軽食屋があった。食料品店に行く前に、焼きそばの匂いにつられて、つい入ってしまう。匂いだけはいい焼きそばで、食べる度に損した気になった。それでも日本語で注文して、日本にいるときと同じように食べられる。それだけでくつろいだ気持ちになる。ある日、窓際の明るいテーブルに座って、いつものように損したと思いながら食べていて、はっと気が付いたら、窓ガラスに額を付けるのではないかいう格好で、食べているのをじっと見ているのがいた。じっと見ながら二人でなにやら話をしている。匂いだけはいいソース焼きそば、美味しいそうと思うのは日本人だけではないのだろう。
見知らぬものに遭遇したときに、なんなんだろうという素朴な好奇心、誰にでもある。釘付けということではないが、ちょっと気になって注視してしまう。そこまではいい。ただ注視にも限度というのか節度のようなものがある。窓の外の歩道だから、立ち止まるのも自由だし、ちょっと見られても、とやかく言えないとは思うが、じっと見つめられながら食べるのは落ち着かない。
聞こえはしないが、見ながら二人で何か話をしている。目が合っても、何かバツが悪いなどと思うこともないのだろう、視線を外しもしない。視線を外したのはこっちで、二人は平然としていた。そりゃないだろうと、思って視線を二人に戻して、半分以上意識してニヤッと笑ってやった。日本人だったら、ここで多少なりとも申し訳ないという、素振りの一つもしようというものなのだが、何人か分からないが、その類の遠慮というのか文化がない。二人からおおらかなニヤが返ってきた。バツが悪くて、どぎまぎした。なんでお前たちは何とも思わずに、こっちがバツが悪いと感じなきゃならないんだ。
ジェスチャーであっちへ行けと言えないこともないのだが、あからさまな嫌悪の意思表示をするのも気が引ける。それでも見続けられながら食べ続けるのは落ち着かない。帰ってきたおおらかなニヤにあてつけるかのように、おおらかを超えた明るさの表情を作って、観られていることに誇りのようなものでももっているかのような素振りで、軽く手を振ってやった。「美味そうだろう」「そんなところで見てないで、入ってきて食べたらどうだ」と言わんばかりのジェスチャーを返してやった。
お前たちも、この匂いだけはいいソース焼きそばを食べたら、どう食べたところで美味くはないし、ろくに具も入っていないのに値段だけは一人前の日本食に呆れるだろうと思いながら、今度は店に入って来いと手を振った。入ってくるほどの勇気もなし、そこまでされると、流石に見続けることもし難くなる。日本文化の伝播はできなかったが、うっとうしいのを追い払えた。それでなくても、匂いだけの焼きそばで損した気になってるところに、うっとうしい観客まで、疲れる。
随分経って、また似たようなことがあった。今度は三十はいっていない感じのカップルで、以前の二人と違って、見続けるわけではないが、じっと見て、二人で笑っている。笑い終わって、また見てる。同年配のカップルが楽しくウィンドウショッピングならぬウィンドウウォッチングを楽しんでいる(?)のを無下するのも大人げないし、気が引ける。それでも、食べているのをじっと見られて、落ち着かいない。そんなことは見ている当人たちも知らない訳でもないはずで、気が引けなければならないのはカップルの方のはずなのに、なぜかこっちが気が引ける。目が合ったら微笑んできた。
冗談じゃない、うっとうしい。アメリカの文化には遠慮というものがないのかと言いたくなる。微笑まれて、睨み返す訳にもゆかないし、無視するのもどうかと思って、微笑み返してやった。返した微笑みは、「うっとうしい、あっちへ行け」という意味なのだが、そんなことが通じる相手じゃない。しょうがない、どうするか?前の二人組に対してと同じように、店に入って来いとジェスチャーで伝えた。そこまでされると、厚かましく入ってくる度胸もなし、店の方だって見学はお断りだから、入ったら客にならなきゃならない。「入って来い」が「あっちへ行け」という意味になる。
何時でもどこにでもある好奇心から生まれる視線なのだが、ちょっと見まではいいとして、それ以上、じっと見るのは、見物を目的としたところのみで歓迎されることで、それ以外、人様の日常生活でも宗教行事や娯楽の場でも、飲み食いの場でも節度を越えれば顰蹙ものでしかない。
場末の飲み屋街が、観光におけるディープなどという流行に侵されている。新宿のゴールデン街など、オヤジ連中の呑みの場が、あたかも物見見物の場に化している。ぶらぶら歩きや道路のあちこちで集団でたむろして、人出のおかげで一見賑やかになっているようにもみえるが、客でもないのが、ただの物珍しさでうろちょろされちゃ、通いのオヤジ連中の足は遠のく。興味本位の若い人たちだけではなく、外国人観光客まで増えて、場末がきれない街に蘇るかもしれない。小洒落た落ち着かない店が増えて、きれいになった分しっかり高くなって、オヤジ連中は逃げ出すことになる。これを称して再開発ということらしいが、長年に渡って培われた街の文化を失って、どこもここもハンコで押したように似たような街並みになって、それで美しい国もないもんだろう。
街の空気や文化は一朝一夕には生まれない。それを放りなげることに何も感じることがなくなったというのか、商業資本が作ったものを文化と思っているか、ただの流行にしか興味のない人たちが物見高さで徘徊する。「イヤな世の中になったもんだ」昔聞いて何言ってんだ、このオヤジと思ったのが、つい口をついてでてきそうになる。
<鶯谷−ラブホのおかげで>
鶯谷駅の両側の風景がちょっと極端で、一方は寛永寺、その反対側には小さなラブホがひしめいている。新宿や渋谷辺りのラブホと違って、若いカップルに受ける雰囲気がない。そのおかげで、チャラい若いのがうろちょろすることもなく、オヤジさんの憩いの場を、観光地と勘違いして見物にくるのが今のところいない。居酒屋や焼き鳥屋が昔ながらの客層で賑わっている。鶯谷駅は山手線の駅のなかで、ダサい駅No. 1らしい。浅草が妙な観光地になってしまった今、鶯谷駅は何時までもNo. 1であって欲しい。
2016/6/12