市場とは−主観的景色

下記は営業部隊の話としているが、営業部隊や企業に限らず社会一般にも同じことが言える。
同じ製品を販売するメーカの営業部隊の中にもその立場によって見なければならない市場も違えば、見える市場の景色も違う。同じ市場を同じ業界の同業として見ても、見える景色に、ここまで大きな違いがあるのかと思える違いがある。
市場を景色にたとえた説明なら分かりやすいかもしれない。日本語では景色という一つの言葉しかないので、次の二つの景色に分けて考える。誰にでもそこにある景色、絶対にこれという一つの景色を客観的景色。その客観的景色をそれぞれの企業、それぞれの部隊、それぞれの人たちが見て、これが景色だと思うものを主観的景色と呼ぶことにする。
同じ一つの顧客でも、販売する製品、販売する企業の立場、その企業のどの部隊に所属して客観的景色を見るかで主観的景色が違う。その主観的景色も営業活動を始めたばかりのときのものと、それなりの実績を上げきた時のものでは違う。同じ一つの客観的景色でも、見る人の立場、もっと言えば、何を見たいかで主観的景色が違う。見る人の数、何を見たいかという目的、見る回数の数だけの主観的景色がある。主観的景色はそれぞれの人の事情−能力の限界や希望などから影響を受けた客観的景色と言える。
市場を見る、理解するというのは、社会のどの部分の何をどう見たいのか、どこからどう見れば、自分たちのビジネスの目的をできるだけ短時間に、経済的に達成し得るかという視点を探しだすことを目的としている。そこには自分たちが社会でいったい何なのかという自己定義と自分たちのビジネスに関係する、市場と一言でいってしまっている社会の一部分との相関関係がある。この相関関係を理解することが市場を理解することに他ならない。
他ならないのだが、理解は常に自分や自分たちの主観的景色に基づいたもので、他(社)の人たちも同じように彼らの主観的景色に基いて市場を理解して行動している。全ての人がそれぞれの主観的景色に基いて、合理的で整合性のある(はずの)事業展開をしているはず。ここから興味深いことが見えてくる。
ご同業がある製品なり商品なりを開発している、ある販売戦略をとりはじめた。なぜ、そのような製品なり商品なりを開発しようとするのか。なぜそのような販売戦略をとるのか。少なくとも彼らの考えでは、その開発も戦略も合理的な判断のはず。では何に基いて合理的なのか。それは彼らの主観的景色に基いてだろう。主観的景色は客観的景色に見る者の意思や思い入れ、希望や野心というバイアスがかかったものに他ならない。ということは、彼らの行動を見れば彼らが自分たちの都合や事情で客観的景色をどう見ているのか−彼らの主観的景色をそこそこ順当に想像できる。
彼らの主観的景色を細かく見てゆけば、彼らのバイアス、能力の限界から、それこそ一見合理的とはかけ離れたお家事情のようなものまで想像し得る。主観的景色はさまざまな事情で歪んだ鏡のようなもので、客観的景色との差は主観的景色を創りだす人たちの、けっして公開しない内部事情までをも映し出す。彼らが市場をどう見たいと思って、どう見ようとしているのか、その理由まで想像できる。
ここまで想像できれば対抗策も案としては自ずと決まってくる。ただ、彼らと同じように自分たちの理解も主観的景色に過ぎないこと、さらに彼らの主観的景色の理解も自分たちの事情に染まった主観的景色に過ぎないことに注意しなければならない。
誰も客観的景色は得られない。それは得る努力をする価値のないものかもしれない。個々の人たちのそれぞれの事情から生じるバイアスのかかっていない客観的景色はそれぞれの事情から制限を受ける人たちにとって判断の拠り所にならない可能性がある。ただ、主観的景色がどれほど客観的景色から乖離したものであるのか−自分たちのバイアスの影響は理解しておきたい。その意味では、限りなく客観的景色に近い主観的景色も持ちえるかが市場理解の巧拙を左右する。
p.s.
人によってはどうしたらそこまで主観的に物事を見れるのか、なんとも想像を絶することがある。どのような客観的景色があろうとも、客観的景色に全く影響を受けない主観的景色を固持して、それを客観的景色であると信じ込んでいるとしか思えない人もいる。そのような人に限って、まっとうな人たちのバイアスを極力排除したかなり客観的な主観的景色の存在を認めない。
2013/11/3