郷に入っては郷に従え

これは誰でも知っている格言で、英語にもローマではローマ人がするようにという同種の格言がある。格言の常として、ほとんど誰もがその格言は正しい、そのようにすべきだと信じているが、なかなかそのようにはできないことに不甲斐なさを感じている。多くの格言の場合はこの不甲斐なさの感情を受け入れるしかない。しかし、この「郷に入っては郷に従え」という格言については、その通りにできないことを不甲斐ないと感じる自分に不甲斐なさを感じる。
そもそも、もし、完璧に郷に従ってしまったら、たいしたものじゃないにしても一体自分のアイデンティティはどうなるんだ。郷に従うことを潔しとせず、意味もなく突っ張るのも馬鹿げているが、自分というものを完全に放棄してまで、迎合したらそれこそ何も残らないのではないか。そこまでしちゃいけないし、すべきでもない。と言いながらも不甲斐なさの感情を拭いきれないのは、どこかで多分意識しないように努めながら迎合していることを自覚している自分がいるからだろと思っている。個人としては、多くの人がこのような感情を抱かれていると想像している。
ところが企業活動の世界に目を向けるとちょっと変わった風景に遭遇する。一言で言えば、あまりに両極端で一方に完璧に隷属する、あるいはそう振舞うことがその存在価値になっている企業群があるかと思えば、反対側には隷属を強要しうる立場にいる、強要することで自社の価値を高めている?企業群がある。しばし、後者が大小はあるにしろ勝ち組と呼ばれ、日本発のグローバリゼーションを牽引している。
海外進出すれば否が応でも異文化のもとで事業展開しなければならない。異文化と遭遇したときに最も強くアイデンティティを意識することになる。ここまではあってあたりまえ、なくちゃ困るが、アイデンティティを意識するあまり、日本にいるときは多少なりとも持っていた「郷に入っては郷に従え」の気持ちをすっかり忘れてしまって、歴史も文化も社会習慣も価値観も全く違う国で、しばし日本でやってきた自分達のやり方で押し通そうとする。日本で成功を収めたやり方に自信もあるだろうし、押し通したい気持ちも分かるが、ちょっと後ろに引いて考えた方がいい。
日本で成功したやり方は、意識しようとしまいと日本の特殊事情というか環境に合ったやり方ででしかないんじゃないか?合っていたからこそ、そのやり方で成功したんじゃないのか。多くの点で状況が異なる環境で、別の環境でうまくいったやり方を押し通そうとすることがまさかアイデンティティでも、その主張でもないだろう。
脈々と築きあげてきた企業文化を企業のアイデンティティと呼ぶにしても、あるやり方そのものがアイデンティティじゃないだろう。アイデンティティは本来もっと根本的な価値化に根ざしたものだ。確固たるアイデンティティがあれば、特定のやり方に固執することなく、本来の目的を達成するために状況に応じて柔軟なやり方を選択する精神的な余裕もでてくるはずだ。まさか俺の、あるいは自社のアイデンティティは違った環境、文化、社会習慣、価値観を認めないのだと主張する人も企業もそう多くはないだろう。
しかし、公言するか、自覚するかどどうかは別として、傍目から見える限りでは、実際の行動は実にそう考えているとしか思えない人も企業も決して少なくない。日本市場で大きな成功を収めているにもかかわらず、海外展開にもたつく原因は様々だが、この安っぽいアイデンティティの振回しが一番が問題なのではないかと考えている。「郷に入っては郷に従え」と同義の英語の格言があるように、このアイデンティティの問題は海外展開を進める日本企業に特有の問題ではない。帝国主義時代あるいはその前から海外進出を果たし、日本企業以上に海外進出には歴史も長く、経験も豊富な欧米企業にもしばし日本企業以上に頻繁に見られる問題で、日本企業の方が海外進出の歴史が短いだけ、多少の言い訳もできるかもしれないが、こんな言い訳をしなきゃならない立場にはなりたくない。