能吏の限界-明日は誰が(改定1)

能吏ではなく、エリートと言ってしまってもいいのだが、エリートと一言でくくり難いので、あえて能吏という言葉を使わせて頂く。能吏、ちょっと古臭い言い方だが、広辞苑によれば、能吏とは、「事務処理能力の優れた役人。有能な官吏」ということになる。ここでは官僚、官吏、能吏という言葉を便宜上使っているがその範疇は官僚だけに留まらず、一般企業内の官僚=民僚も含めている。
今風に言えば、(仕事が)“できる人”とでも言うのが一番近い呼び方なのかもしれないが、最も大事な部分で両者には大きな違いがある。“できる人”のなかには能吏の枠に収まらない方々もいらっしゃるが、残念ながら多くは能吏に近い人が多いと想像している。能吏に近いで“きる人”も能吏に含めその人たちの弊害−多くのひとたちがその弊害に辟易とした経験をお持ちだと想像している−のうちで特に大きな二つの問題について言わせて頂く。
そもそも能吏も含めた官吏は、現状の支配階級に仕え現状を固持することを目的として存在する。官吏のなかで有能な人材が能吏で、彼らは現状を固持するために己の能力を磨いてきた社会層、階級のうちでその能力ゆえに成功したエリート官吏のことだ。その鍛えあげてきた能力は法律から何から何まで現状のやり方でものごとを処理することを前提として最適化されている。最適化されているがゆえに能吏と呼ばれ、最適化されていればいるほど能力が高いと言える。
ここまで言えば、彼らの存在自体の問題がかなり明確に想像がつく。まず第一に、支配階級の手先としての存在規定から彼らには自らの目で見て、耳で聞いて、自らの頭で考えて何か問題か?その問題解決のために何をなすべきかという決定をする能力は鍛えてきていないし、自ら決めることを意識的に避ける。なぜなら、何をするかを決めるのは支配者階級の特権であって、能吏としては支配者が決めたことをただ遂行する愚直さが求められる。
能吏にもかかわらず、何をするかを自ら決めようとする意志や能力は仕える先の支配者階級と覇権を争うことになり、能吏としての存在を自ら否定することになる。この典型的な例が被征服民族にもかかわらず植民地行政府の下級官僚として、侵略者の手先として自国民を搾取した社会層がいる。彼らは侵略民族である支配者階級に仕え植民地運営の一端を担うことで自国を植民地の状態に保つことをその存在理由としてきた。
自らは決めない。決められたことを決められたように愚直に遂行する。そして決められたことを遂行した結果について、何をするかを決めたのは彼らではないという論点から彼らはしたことの責任をとらない。ここから必然として官僚の無誤謬性が生まれる。
第二に、彼らは現状下でものごとを遂行すべく能力を最適化しているので現状を変更することを拒絶する。基本的に変わることに生理的な不安感がある。決められたことを愚直に遂行するためだけに存在しているような社会層なので、その拒絶の範囲に特徴がある。ものごとを遂行する方法の表層のやり方さえ変わらなければ、拒絶は限られている。
このいい例は、選挙による政権政党の交代がある。官僚としては、選挙の結果として何党が政権を握ったとしても、選挙前と変わらない官僚組織と権益があれば、何も変わっていないのと同じことになる。彼らは、常に本質的に革新を嫌い、全ての変化を拒絶する抵抗勢力の中核を構成する。ただ、自らの利益になるときだけは別で、それを革新と呼ぶかどうか疑問があるが、変化を推進することがある。
こうしてみると、能吏がどれだけ社会の将来に、あるいは企業の今日に、明日に貢献しうるのか甚だ疑問と言わざるを得ない。責任を回避し、自らの利権拡大の変化以外の変化を拒絶し、社会の進化や企業の改革を阻害する集団としての能吏、優秀なだけに最も扱い難い厄介ものだ。
民僚の能吏のうちで権力闘争に生き残ったのが、実は社長も含めた経営陣だったら、と言うより、多くはだろうが、彼らからの改革は表層的なものに留まらざるを得ず、社会や企業の基底を改革することは、ありえない。歴史上、自らの存在基盤を切り崩す改革を進める個人はいたが、社会層はいなかったし、これからもいないだろう。
では明日の社会を作るのは誰なのか。能吏には明日の社会をつくれない。能吏ほどの能力−“できる人”でありながら能吏の枠に収まらない人たち、そのなかでも能吏が能吏とおさまる社会や環境では息苦しいと思い、明日の社会やありようを思い描く意思がある人たちだろう。
“できる人”とは“できるようになろう”と努力して“できるようになった人”で何もしないで最初から“できる人”はいない。そう考えてくると、“できるようになろうと”努力する人で明日の社会のありようを思い描く意志がある人たちということになる。であれば程度の差はあれ、フツーの人たちであれば誰でもなれそうな。。。
2014/12/28