街頭募金(改定1)

もう、何年も前のことだが、京都駅北口をでたところ(烏丸中央口)で、見たところ真面目な大学生らしき集団が街頭募金をしていた。総勢二十人以上がいくつかのグループに分かれて、先を急ぐ人や観光客に向かって声を張り上げていた。よくある街頭募金と同じように、xxxお願いしますというような言葉を、まるで聴覚障害者でも聞こえるようという大声で繰り返し叫んでいた。
いくら大声で叫んだところで、周囲を歩く人達は反応しない、よくある街頭募金と同じように黙殺されていた。なかには声のピッチが高く生理的な嫌悪感さえ催す声もあって距離をあけて通ってゆく人さえいた。
募金自体は真っ当なものなのだろう。若者達の表情は明るく好感が持てる。時間があったので、しばらく立ち止まって何を叫んでいるのか聞いてみた。聞いてはみたが募金の目的がはっきりしない。こっちの社会認識が不足していて分からないのかもしれないと思って、他のグループのところに移動して聞いてみた。やっぱりよく分からない。
演説集会でもないので、立ち止まって聞き入る人はいない。通りすがりの短い時間内に主旨を伝えようとすれば、込み入った説明をする余裕などない。伝える内容を端的にまとめて短くしなければならない。しかし、議員の選挙じゃあるまいし名前だけの連呼に、お願いしますでは何も伝わらない。伝わらないから、黙殺される。黙殺されるから、声が大きくなる。中学生など年齢の低い街頭募金になると、集団で悲愴的な絶叫に近い大声を張り上げる生徒までいる。聞いてというより聞こえてきて、募金しようかと思う人より、うるさい、うっとうしいと思う人の方が多いだろう。
大声を、叫び声を聞く度に、叫んでいる方は本当に募金の主旨を、その目的をきちんと理解しているのだろうかと訝しく思うのを抑えきれないでいた。募金によっては毎年恒例となった由緒正しい(?)ものまである。が、それがそのまま街頭で叫んでいる人達がその募金について理解しているという保証にはならない。なかにはしっかり組織化されていて(官僚化といってもいいかもしれない)、毎年お決まりで、どこそこの小学生や中学生、高校生までが駆りだされた感じで駅で叫んでいるのが風物詩のようになったものまである。
京都駅前で出くわしたのは、しっかりした大学生らしい集団に見えた。募金の主旨も目的も知らずに駆りだされて大声上げているだけの子供の集団には見えない。そこで、がっかりするのを恐れながら、責任者らしき人を探して、募金活動に敬意を払いながらも、募金の主旨、集めた浄財をどのように使うのか、今回が初めてでなければ、過去に集めた浄財がどのように使われ、どのように社会に貢献したのか。。。などなどのデータのようなものはないのか?そのようなデータをきちんと開示しなければ、ここで募金をはじめて知った人に対する説得力があるはずがない。声を張り上げる前に整理されたデータを用意すべきことをお伝えした。さらにこの類の必須のデータを通りすがりの人達に短時間でお伝えしようとするのであれば、グラフィックなデータとしてまとめたパネルなども用意すべきことなど、お節介なアドバイスもどきをさせて頂いた。
早速、責任者らしき若者が数名のリーダーを集めて話始めた。ものの数分もしないうちにリーダーの人達が各グループの戻って話をしていると思ったら、あっけなくみんな集まって帰っていった。
指摘されたことに納得したのかどうかは分からない。多分、大声を張り上げて寄付を募るやり方の有効性に疑問を感じていたところに問題点を指摘され、否が応でも納得せざるを得なかったのだろう。
縁もゆかりもない、道行く人々に寄付金を求めるのであれば、頂戴した寄付金がどのように使われ、社会に貢献するのかなど基本的な情報を提供して、ご理解頂く努力をしなければならない。もっと理想を言わせて頂ければ、道行く人達が些細な金額で社会にこんな有意義な貢献させて頂ける機会を頂戴したことに感謝とはいかなくても、よかったと思えるまでの説得力が、その裏付けのデータとそのデータを分かりやすく伝える工夫が求められる。
人にご理解頂く作業は募金に限ったことではない。目的はきちんと主旨を説明し、ご理解頂くことにある。説明することが目的でもなければ、説明している格好をつけることでもない。ご理解頂くのが目的で、ご理解頂けなければ目的を達成できない。
自分では、自社では分かっていることでも他人や他社の人には分からないことが多い。人に伝えられなければ、人はそのことについてこっちが分かっているのか、知っているかどうかさえ分からない。知っていることを知らなければ、分かっていない、知らないと思うだろう。存じ上げて頂く、ご理解頂くところから全てが始まる。
2013/10/27