晩節を穢さないには、

随分前に新聞か何かで読んだのだが、細かな内容は何も覚えていない。内容は覚えていないのだが、何を言わんとしていたのか、勝手な理解ででしかないのかもしれないが、頭の隅にこびり付いているのがある。若いときに娼婦だった女性がかなりの年齢になってから小説を書き、作家として大成され、著名な作家と惜しまられながらなくなられた。もし、彼女の人生の順番が逆だったら、いったいどうだったんだろうかというような内容の記事だった。ざっと読んだ記事で、メモも取っておかなかったので残念ながら、その作家の名前も、どのような小説をかかれたのかも分からない。人の人生の幸不幸を他人がとやかくいう筋のものでもないだろうし、人の人生も、歴史とおなじように、“もし”はないだろうと思いながらも、世間一般の見方はその記事の通りだろうと納得してしまった。納得してしまっている自分の俗性にちょっと情けなさのようなものを感じるが、やっぱり記事の見方と同じ見方が普通じゃないかと思っている。 若いときの華より、老いてからの道の方に価値を見出すこと自体が歳をとった証拠かもしれないなと思いつつ、その女流作家の人生と逆の人生は避けたいという気持ちが強い。
今まで、お仕えてきた社長の一人にその逆の人生を歩まれた方がいる。お仕えしていたとき、自慢話ともつかないご経歴やらご経験やらをよく聞かされた。旧帝大の一校を卒業され、当時は世界を席巻していた米国系企業に就職された。当時その産業界が黎明期から急成長される時期に遭遇されたのだろうと想像しているが、最年少課長、最年少部長の記録ホルダーだったそうだ。ご本人の努力もあったのだろうが、お仕えして知りえたのは、多分ででしかないが、努力よりは、偶然、そこに居合わせたという運が社会一般でいう彼の成功の源泉のほとんどじゃないかと思っている。偶然そこに居合わせた、その特殊環境に適合したが故にそこそこの成功があった。
あったものの、その特殊環境が時間の経過とともに消滅したとたんに、本来の能力という馬脚を露す羽目になった。若いときに状況に応じて常に勉強し続けなければならないということを勉強する機会を失ってしまった人だった。人から聞いて分かったような気になって、あっちで聞いたこととこっちで聞いたことの上っ面をごちゃ混ぜにして、いかにも自らが構築したロジックとして虚勢を張ってビジネス論議?をするものだから、受ける方は何がなんだか分からない。本当に社会認識から始まって、直接、間接に関係する市場の認識や理解、自社の市場でのポジションなどなど、何時聞いても、はっきり言って何もない方だった。過ぎ去った市場環境下での成功体験、その体験に基づく傲慢さと陳腐化した社会認識と邪魔にしかならない安物のプライドと見栄で固めて周囲を振り回し、組織を弄り回し、己の権力を確認する毎日を送っていらした。
事業成績を確保するために、販売チャンネルへの押し込みから始まって、最後は粉飾で解任された。この晩年に至っての不面目も不名誉も当然の結果ででしかないのだが、その根源は若いときの努力に見合わぬ安易な成功だったのではないかと信じている。誰も要らぬ苦労はしたくないし、する必要もないし、それを求める時代でもない。しかし、若くして、労せずして(本人はしているつもりだろうが)、得た成功ほど晩節を穢す遠因となるものはないんじゃないかと思う。