いじめ

このところ学校における「いじめ」の問題が毎日のようにテレビ、新聞で報道されている。教育を専門としているわけでもないし、「いじめ」に関して何かを言えるほど調査、研究しているわけではないので、かなりの躊躇があるが、どうもこう考えれば、現象としておきている「いじめ」がなぜおきるのかの説明が多少はつくのではないかと考えている。「いじめ」が経営にどんな関係があるのか?と思う方も多いだろう。経営としての学校ではなく、教育現場としての学校がビジネス社会から完全に隔離されているわけではないという以上に、実はかなり関係があると考えている。
「いじめ」と若い人達の「やさしさ」とでもいうのか、必要以上に人の目を気にして、できるだけ多くの人と如才なく付き合う生活態度の間に実は共通の根っこがあるような気がしてならない。「やさしさ」は、人との対峙を恐れ、自らの意見、考えを相手に論理的に説明するような面倒な生き方を放棄したがゆえに得られた生活態度ではないかと考えている。自我の確立などというところまで言う気はないが、若い人達から、認識を異にする相手を説得せんがために、自らが何をどう見て、どう判断して、こうこうこうだという結論に至る説明を、論理展開を聞いた記憶がほとんどない。相手との摩擦を避け、お互いに相手の領分に突っ込むような付き合いを避け、極端に言わせて頂ければ、表面的な、口先だけで話を合わせて誰とでも上手くやってゆくことを最優先して生きているように見える。その結果、少なくとも二つのことが起こった。まず、第一に、たとえ自分なりのしっかりした考えを持っていたとしても、それを筋道立てて、論理的に相手に説明する能力を養う機会を失った。次に現象としての「いじめ」の直接の原因である仲間と「群れる」ことを常とする行動がある。仲間といってもお互いに表面的に合わせることによって成り立っているにすぎないの、集団としてのその存在を規定する個性もアイデンティティはほとんどないか、あっても希薄なものに過ぎない。ところが、集団の常として身内と身内以外の区別をつけることが必要になる。馴れ合いのような集団ででしかないので、些細なことを理由としてでも身内以外として疎外する対象がいれば、集団としての存在を少しでも明確にできる。要は集団として存在するためにも「いじめ」の対象があった方がいいということになる。残念ながら「群れる」、あるいは「群れの中にいることに安堵感を得る」存在ででしかない集団の構成員には、「いじめ」をたとえ感覚的に問題と感じても、それを制止する能力は有り得ようがない。
「いじめ」に関してはもう一つ気になる点がある。「いじめ」は昔からあったことで、今に始まったことではない。若い人達が「やさしく」なると同時に「いじめ」を撥ね返す自己主張が弱くなってしまったのではないか、また、撥ね返さないまでも、やり過ごす免疫のようなものが弱くなってしまったのではないかと思う。日本が豊になって、俺が、俺がとい自己の存在を主張するより、周囲の人と上手くやって行った方が間違いない時代になった70年代半ば以降に若い人が「やさしく」なったような気がしてならない。
豊かさが、人を融和に、やさしくした。「やさしさ」が何にも換えがたい人としての資質であることに異論も何もない。ただ、残念なことに、融和な人材をいくら集めても、戦う集団は作りようがない。歴史も価値観も大きく違う海外で今まで以上に事業を展開してゆかなければならい時代に、自らの考えを論理的に説明して、相手に納得して頂く基礎訓練もないまま社会に出てきてしまった人材にどのような成長の機会と活躍して頂く環境を提供し事業を展開してゆくのか?何をするにも人が、人材が全ての事業展開を進める立場の経営陣に重い課題が突きつけられている。あらためてEQの本でも読んでみるか。