ケチが高じてタカリ(改版1)

東京都知事舛添のニュースを聞いて、似たようなことの当事者でもあり、関係者だったころのことを思い出した。程度の差はあるにしても、今も当時と何も変わらないことが日々繰り返されていると想像している。舛添の私的流用は誰にでもありがちな一面が大きく許容範囲を超えて奇形化して、それが露見しただけのような気がする。

サラリーマンをやっていれば、何かの度に会社の金で飲み食いする機会がある。社内の人間だけでやる新年会や忘年会もあるし、人事異動でもあれば送別会や歓迎会がある。社外の人が絡めば、とくに営業関係の仕事をしていれば、客との食事や接待もあるだろう。ときには、社内の人間だけの飲み会までが、社外の人の名を使って接待交際費の名目で会社の経費として精算されている。
普通、企業文化として、この類は経費で落としてきている、限度は大体いくら位までが慣例となっているなど、たとえ明文化されていなくてもガイドラインぐらいはある。ただ何をするにしても、事後承認になったとしても、また、社内の人が絡む、絡まないにかかわらず経費で落とすとなると、なんらかのかたちで上長の承認が必要となる。上長がいれば、使い方にも、使う額にも、その頻度にも上長の承認という制限がかかる。公私のけじめにしっかりした上長であれば、社内で使ったものを会社経費で落とすケースが減るだろうし、金に細かい上長であれば、社内外で使う経費全体が節約される。

極端なケースとして、非常に金に細かい、ちょっと度のすぎたケチな管理職とその影響について書いておこうと思う。度の過ぎたケチには二通りのタイプがいる。一人は会社の金を自分のために散財し、もう一人はそのケチさから会社の金を節約する。いずれもお世話になったいくつかの会社での実体験に基づいている。
どちらが企業にとって弊害が少ないか?金の面だけを見て後者だと思われるだろうが、早計に過ぎる。前者の影響は社内に留まるが、後者の弊害は管理職個人の悪評で済まずに、企業としての品格にまで影響がおよぶ。

まず、会社の金をよく使うケチな管理職から。どこにでもいるタイプで、この手の管理職は一見鷹揚に見える。客の接待だけでなく、部下もよく連れて飲みに行く。ただよく見れば、真の目的は実は接待でもなければ、部下との話し合いでもない。明るい人で、社公的ないい人にみえるが、要はただの遊び好きに過ぎない。会社の金では遊んでも、身銭を切ってまで何かをするようなことはない。このタイプの上司に仕えると、単純にいつかは自分も会社の金で遊んで、偉そうに振舞える立場になりたいと思う輩が多くなる。その程度の人たち、地位に伴う責任の方が権限よりはるかに早く重く大きくなることに気付かない。

第二のタイプはケチが高じて自社の金も自分の金と同じように節約しようとするあまり、他者にたかる。節約は本来美徳だが、それが奇形化してゆき過ぎれば醜悪、吝嗇以外のなにものでもなくなる。自制の効かない人が取引関係で強者の側に回れば、なんでも弱い立場の人に押し付けて、「たかり」が日常になる。
救いようのない吝嗇家とお付き合いせざるを得ない立場にいたことがある。いくつかの例を上げる。そんなの当たり前じゃないかとおっしゃられる方がいらしたら、既に似たような吝嗇家なのか、あるいは立派な吝嗇家になりうる素質をお持ちなのかもしれない。
お付き合いする羽目になった吝嗇家はアメリカの制御機器屋の日本支社の営業トップだった。その会社では認定代理店経由の営業体制を敷いていた。彼はどこに行くにも、必ず代理店の営業マンと同行した。同行の目的は実業務上にはなく、次の三点に集約される。1)代理店の車で行くことで交通費を節約する、2)昼食を代理店に支払わせて、昼食代を浮かす、3) 客の都合次第だが、客を夕食、その後の接待に連れ出す費用を代理店に賄わせる。

ゴフルなどの接待は当然諸経費まで含めて全部代理店に押し付ける。彼はこの類の支出の押付けかたを自慢し、それを出来ることを自らの貴重な能力だと信じていた。そして、この経費節減方法を部下である営業マンに強制した。部下の営業マンも競って代理店にたかった。四十歳を超えたメーカの営業マンが、二十代半ばの代理店の営業マンを足として使い、ただ飯のために呼び出す。たかられる側にしかなれない代理店も情けないが、個人として、また組織として自社の代理店−売り買いの流れからみれば客の立場にいる販社を食い物にするメーカの営業部隊ができあがった。このたかりの構造のビジネス面には、仕切り価格から支払条件の一方的な締め付けがある。知っているだけでも数社しかなかった代理店の少なくとも二社が倒産した。

メーカの営業部隊にはこの前者(会社の金を使う)と後者(他社にたかる)の両方を上手に使い分けているのが多い。前者はまだ社内の問題ですむが、後者になると社外にまで醜聞が広まる。従来にも増して経費削減が厳しく求められている今日、組織をあげて、このたかりの構造が肥大しているのではないかと想像している。

営業マンは担当する顧客に対して、たとえ代理店経由であろうと会社の顔として、会社を代表して接する立場にいる。その立場の人たちが「たかり」を常としていたのでは、遵法がどうのこうのといったところで、企業倫理もへったくれもあったもんじゃない。
上に立つ人からまず率先して襟を正さなければ、下はその必要性を感じることもないだろうし、もし感じたところで、「たかり」の文化の企業や組織には、襟をたださなければなどと具申するようなお人よしはいない。そのようなことを匂わすだけでも左遷される。
舛添都知事のおかげで、都庁に「たかり」の文化が花開いているのではないかと、要らぬ心配までしてしまう。
2016/5/29