確立された手法

品質管理手法、人事評価手法など日常業務で様々な確立された手法が使われている。長い時間をかけてその有効性が証明された手法だけが今に至るまで広く採用されているのだと思いたい。しかし、その手法が開発された当時と今では、社会も、業務内容も、業務の仕方も大きく変わっている可能性もあるんじゃないかと穿った見方をしたくなることがある。
どのような手法であれ、あるとき、ある環境に応じるべく必要に迫られて開発されたのだと想像している。そのあるとき、ある環境と今自分達が置かれている環境が完全に同じであるはずはないんじゃないか?その手法が開発された、必要とした環境に関して全く無関心で今の情況との違いがあるのではないかなどと検証しなければならないなどという話しは寡聞にして聞いたことがない。
医薬とは違うと思うのだが、どのような環境、情況、目的にもぴったりある薬がないのと同じで、手法も自分達の置かれた環境、情況、目的などに合わせて変更、修正しなければならい。理想を言えば、今の自分達の情況、目的など真摯に見て、何を目的として、何をどのような手段で、とのようなタイミングで調べて、得られたデータをどのように分析して、その結果をどう使って行くのか自分達のオリジナルの手法を開発しなければならないのではない。
この自分達のオリジナルの手法を開発する過程こそが、本来の科学技術の発展の源なのではないか。この過程を経ることなく、どこかで開発された歴史的評価の決まった、よく言えば完成した、枯れた手法を、自ら評価する手間すらも惜しんで、当然変更もなしに、修正の必要性に関してなど想像することもなく、その表面的なテクニックだけを導入し即の効果を出し続けることで高度成長してしまったのが日本じゃないのかという気がする。
辛苦のはてに自らの情況に基づいて歴史の評価に耐える手法を開発してきた、今も新しい手法を開発し続けている科学技術を誇る国と、出来上がった手法を、それもテクニックを導入したに過ぎない国の間には埋めようのない基礎レベルの、もっと言えば、社会文化にまで違いがあるような気がしてならない。これは、国対国の話しだけでなく、企業にも、実は個人にもあてはまることではないかと考えている。
解ける問題を限られた時間内に解く訓練で鍛え上げられた人材が決まった答がありえない問題に、前例のない問題解決には適任でないことも多々あるし、ましてや問題解決のテクニックに長けた人にとって、問題は与えられるものであって、自ら発掘する類のものでないという姿勢になりかねない。与えられれば定石通りに答を出す努力はするものの、それ以上−新しい解決方法を作り出すなどということはしないだろう。前人が築き上げた範疇で、あちこちで既に実績のあるものを上手に組合わせて、効率よくうまくやってゆく。明治以来、いや太古の昔から日本が国を挙げてやってきたことは、これなのかなと思うとちょっと寂しい。