規則は作る側のために作られる

こんなことは古今の東西、適用範囲の大小にかかわらず本質的にそうででしかありえない。これは、一般社会生活の場でも、企業や組織における日常業務に関しても同じで、作る側にとって都合のよいように作られる。
一般社会生活上の規則とは一般的に言えば法ということになる。法となると作る側の人間もそれで規制される側にしか立ち得ない人達の意向、はっきり言えば利害を無視しえない社会構造が曲がりなりにもある。あまりにご都合が過ぎれば−作る側、あるいは作る側に組する人達のみを利する規則を作れば、たとえ時間がかかるにせよ、ご都合を制限する社会的な力−抑止力が働くことになる。
この抑止力は、結果として暴動や革命を引き起こすこともあるだろうし、選挙を通して政権交代を即すこともあるだろう。ここで、もし、作る側の人達のご都合−私利を規制する社会的な抑止力がなかったら、あるいは、たとえあったとしても名目上あるというだけで用をなさないようにされていたら、どうなるか?
疑問の余地があるとは思えない。一般社会生活上の規則ではなく、多くの人達の社会的生産活動の場である企業や組織の業務に関係する規則はどうなっているのかをみればはっきりする。そこには、人間が一般社会においては長い年月をかけて築いてきた規則を作る側の人達の行き過ぎを規制する社会構造も抑止力もないといっていい状態がある。
一般社会における民主的な制度のいかほどが一般企業ないにあるのか、一つひとつチェックしてみたらいい。たとえ擬似的な構造があったとしても、あくまでも擬似的なもので、まやかしででしかないことに気づくはずだ。選挙があれば民主的だなどと言う気は毛頭ないが、それでも選挙制度は人間が長い歴史のなかで、より民主的な社会を構成するために編み出した一つの確立された手法だろう。その一つの典型的で具体的な手法が一般社会では常識とされているにもかかわらず、私企業で職制を従業員の選挙で選出したなどということは寡聞にして聞いたことがないし、よほど特殊な環境下以外では、ありえないだろう。
従業員に対する福祉厚生も充実しているじゃないか。昔の階級社会の視点では、今日の高度に発達した民主主義社会は論じ得ないなどなど、異論は多々あるだろうが、状況を整理して、素直に見ればこの理解が間違っているとは思えない。一般社会における民主主義と多くの人が思っていることが企業内にあるのかという素朴な疑問に自信をもってYesと言えるのか?
企業には定款から始まって明文化されたさまざまな規定がある。その多くが組織を運営してゆくためにはどうしても規定として確立しておかなければならない類でもものであることは認める。しかし、よくよく見てゆくといくつかの特徴的な現象があることに気づく。規則を作る側を拘束しかねない規則には抽象的な概念に近いものが多く、作る側がその規則を強制することで自らの目的である組織運営を図るものは具体的な内容となっていることが多い。醒めた目でみれば、なるほどとしか言いようがないと思うのだが。