感動、共感から参加へ(改版1)

久しぶりに若い人たちの(かなり)純粋で硬質な社会観を聞いた。彼らに指摘されるまでもなく、安保にしても、米軍基地も、消費税も、原発も、雇用も、少子高齢化も、。。。たとえ、たいして問題意識をもってなかったとしても、どこもかしこも問題だらけであることは分かる。こんな社会しか若い人たちに引き継げなかったことが恥ずかしい。
彼らの話のなかで出てきた今の議会制民主主義に対する疑念と失望、そこから生まれた直接行動(ハンガーストライキ)に対する衝動が冷え切っていた思いを熱くしてくれる。七十年初頭の自分(たち)のありようを彷彿させるものがあるだけに、受けた感動を超える不安がある。余計なお節介だろうが、このままゆけば六十年、七十年の学生運動がたどった先鋭化まで、たいした距離がないかもしれないと心配になる。
普通選挙や議会制が民主主義を保証するものではないことは分かっているが、より民主的な社会を目指すとき、選挙と議会制にとって代わるに手段があるのかと考えると、答えが見つからない。代替え手段が見つからないという消極的な視点からでしかないことに忸怩たる思いがあるが、直接行動に進む前に、まだまだ改善の余地の多い選挙と議会制を改革してゆくことから始めるべきだと思う。
改善すべくあれこれしても、いつになったら確たる成果や効果を実感できるようになるのか分からない。改善に向けた一つひとつの地味な活動の積み重ねは、直接行動のようにひと目を引くこともないし、充実感も乏しい。効果がないのではないかと不安になることも多い。しかしだからといって、性急に選挙と議会制では改善しようがないと断定すべきではない。直接行動は地味な改善活動の積み重ねを違う側面から支援するものに留めるべきで、それを活動の主体にするのは危険過ぎる。
直接行動は人目を引くパーフォーマンスで人びとの感動をよぶ。人びとの感動がフィードバックして自己陶酔すら生みかねない。感動もよばなければ自己陶酔も生まない直接行動を繰り返す一途な勇気のある人は希だろう。それを逆の視点からみると、周囲の人たちの感動と自己陶酔が次なる直接行動につながり、拡大基調の連鎖を生む萌芽が、たとえ可能性にしても、みえる。
人びとの感動を呼ぶ直接行動は、感動を求めるあまり、周囲の人たちには、なかなか真似できないことに走りやすい。いつでもどこでも誰にでもきるパーフォーマンスでは引き起こせる感動もしれている。一般大衆のさらなる感動を求めれば、一般大衆が付いてこれないパーフォーマンスへと過激化する。過激化すれば、社会問題を解決するために必須の大衆の理解や合意だけでなく、解決にむけた活動への大衆の参加などありえないところまで進みかねない。進んでゆけば、直接行動を重ねる人たちと一般大衆の精神的な隔たりが大きくなる。
社会問題の解決とは、解決の方向に向かって社会を突き動かすことに他ならない。突き動かすという言葉があっていると思うのだが、誤解をまねきかねない。あえて説明すれば次のようになる。社会の民主化は、社会問題を解決した、あるいは軽減した社会の方が、そちらに進んでいった方が社会を構成する人びとの大勢にとって「いい」という「認識」というのか「常識」を醸成する活動によってしかなしえない。
醸成されるまでには時間がかかるが、自分たちで知って、自分たちで解決してゆくという当事者意識が育たなければ民主的な社会など望むべくもない。覚醒した人たちのリーダーシップに依存した民主主義などあり得ない。当事者意識の欠如からは、風説に流される衆愚社会か、強いリーダーか組織に引っ張られる独裁社会への道しか生まれない。覚醒し直接行動に訴える若い人たち、まさか将来の独裁者や独裁社会を目指している訳でも、一歩さがって仕切り屋を目指している訳でもないだろう。
「認識」や「常識」を醸成するために必要な直接行動は、周囲の人たちに感動を与えるものではなく、周囲の人たちに共感を呼ぶものでなければならないし、共感から一歩進んで、周囲の人たちが参加できるものでなければならない。誰もが社会問題にまみれて日常生活を送っている。まみれてが、いいすぎであれば、折り合いを付けてといってもいい。社会生活をおくるということは、そこにある社会問題の存在を受けいれて、折り合いをつけて生活することに他ならない。そうした日常をおくっている人たちが、大きな敷居をまたぐことなく参加できる社会運動−直接行動もその一形態−でなければ、社会問題は解決できないし、ましてや民主的な社会など求めるべくもない。
2016/1/31