人にやさしい日本語(改版1)

住まいの近くに身障者の学校と付設のキャフェテリアがある。毎日のように前を通るのだし、そのうちキャフェテリアにはと思いつつ、もう五年以上経ってしまった。何かきっかけでもなければ、このまま行くこともないかもしれないと思い立って、昼飯を食べにいった。そこではカレーやパスタなどの軽食にコーヒーや紅茶を楽しめる。販売しているパンや豆腐には防腐剤などの添加物が入っている心配もない。全てが身障者の社会参加の一環として作られたものだろう。建物もきれいで清々しい。採光もよく明るい。ほのぼのとしていて、午後のひと時を過ごすにはこれ以上のところがないというところだった。

限られたメニューからオムライスカレーとたらこスパゲティを選んだはいいが、注文にちょっと手間取った。注文を取りに来てくれた人が障害者で、慣れないと話が通じているのか心配になる。カレーの辛さはどのくらいなのか?スパゲティを塩分控え目にできるか?ちょっとしたことでも、障害者の方には理解するのも返事をするのも大変なのだろう。言葉を選んで、ゆっくり話したのがだ、自信がないのか不安なのか、厨房からキャフェテリアを担当している女性を連れてきた。一所懸命やってるのに、申し訳ないことをしてしまったと悔いた。
何を話しても、最後には「どうも、ありがとうございました」が付いている。それが長すぎるせいで、語尾は舌がもつれたかのような感じになる。丁寧な話し方は、施設の先生からの指導だろうが、なくてもいい言葉で困るのだったら、もっと簡略化した話し方でいいと思う。
注文を取りに来てくれた人は、自分が言っていることはしっかり聞けているようだった。そして自分が話していること−もつれた言い方になっているのを、恥ずかしいと感じているのか、おどおどしているのがわかる。それに気が付いてしまうと、何か訊けば、精神的な負担をかけてしまうのではないかと思って、話すのをためらってしまう。

文学者でもなければ国語学者でもない。その類の領域に関して何もしらない。素人の理解でしかないが、日本語は、明治になって羽織袴を着た「ござろう、そうろう」から日常会話により近い文語体への改革が始まって、今日の口語に至っている。昔に比べれば随分平易になったのだろう。その日本語、日常会話で何も注意せずに使っているが、しばし、なんでこんなに長いのかと考えさせられることがある。今、こうして書いていて、なんでこんなに長くなってしまうのか、もっと短くできないのかと気が重くなる。言わんとしていることの主体の部分はさほどの分量でもないものが、一つの、それなりの文にしようとすると、前後を飾るものが付いて、ここまで長くなるのかと呆れる。
英語の会話と比べると興味深い。英語なら「Thank you」で済ませるものが、前述のように「どうも、ありがとうございました」になる。主体の「ありがとう」が五文字。前の飾りが「どうも」で三文字。後ろの飾りが「ございました」で六文字。五文字の主体に九文字のお飾り?三文字の前の飾りを省いても、主体より飾りの方が長い。

紋付羽織袴が洋風になってスーツにネクタイに落ち着いた。この二十年くらいだろうが、それがもう一歩進んで、スラックスにシャツになった。仕事の場の服装もビジネスカジュアルが特別なものではなくなった。
経済学者Paul Krugmanが(かつて?)Princetonのサイトにおいていたホームページが興味深い。自身を紹介する二枚の写真が社会の写し鏡としての服装に対する彼の考えを示していた。スーツにネクタイ姿の写真を「in uniform」、ズボンにポロシャツ姿には「civilized」と書いてあった。前者は形式ばった、型にはまった、拘束された、後者は(自ら意識的に知的)自由を主張したとでも言ったところだろう。

これと似たようなことが服装ではなく日本語で、それもフツーのビジネスの場も含めてできないのか?前後の飾りのついた、もってまわった日本語のより、言わんとする主体だけの方が聞き間違いが少ない。ごちゃごちゃ余計なものが付いていると、肝心の主体を聞きそこないかねない。
その「かねない」のを悪用する人たちすらいる。言いたい主体がはっきりしないで、へんに修飾が多いのは主体にごまかしがある、あるいは実のない主体に実があるように見せようとする、小賢しい修辞に過ぎないことが多い。その小手先の修辞を「スキル」などと呼んで、あたかも必須の能力のように、。。。正直呆れる。多くの政治家や官僚の言いぐさを聞くたびに、あっちゃいけない、姑息な日本語を感じる。

グローバル化のなかで、日本語を習得しなければならない、したい海外の人たちも増えている。その人たちに丁寧にということで羽織袴を着たような、かしこまった長ったらしい日本語をと言えば、学ぶ気持ちが萎えてしまうことすらあるだろう。
英語が世界の共通語になったのは、イギリスが世界中に植民地をもっていたからだけではない。英語を一応習得して、第二外国語としてドイツ語やフランス語などの勉強を始めると、冠詞と人称変化の多さにめげると同時に、英語が学ばなければならない人たちにやさしい言語であることに気付く。

アメリカのように英語圏からだけではない移民によってかたちづくられた国では、イギリス英語の簡略化、意思疎通の手段として、多くの学ばなければならない人たちによって角のとれた平易な英語になっていった(と想像している)。同僚のアメリカ人から聞いた言い方の一つに「long time no see」がある。それはアメリカインディアンが限られた語彙で「久しぶり」ということを相手に伝えるための言い方だろうと言っていた。Webには、それは中国系の移民の人たちが使い始めたという説があった。確かに教養のある人たちは使うのを避けるかもしれないが、持って回ったいい方で言葉の不自由な人たちの誤解を招くより、意思の疎通という言葉の本来の機能からすれば必要にして十分、軽んじるものではない。

なんらかのハンディのある人たちが、そうではない人たちと同じように生活できる、人にやさしい環境(バリアフリーもその一環)が言われて久しいが、言葉による意思疎通は環境と同じように日々のもの。最近妙に耳にするようになった「おもてなし」の多くは、いっときの対人関係でしかない。「おもてなし」はいいが、丁寧や親切さを気にするあまり、伝えなければならない主体に今まで以上に飾りのついた日本語へと誘導されやしないかと心配になる。
それは学ぶ人たちや言葉の不自由な人たちに「やさしい」日本語ではないのではないか?人が人たる所以のもっとも大事なところにある言語による意思疎通。その意思疎通の基礎にある日本語。この日本語が人にやさしくなかったら、人にやさしい環境どころでもないだろうし、「おもてなし」などといったころで、実のない人たちや、誰かの金儲けに都合がいいというだけじゃないかとすら思えてくる。

ビジネスカジュアルなるもの、もともとは働く人たちの日常の必然から自然発生的に生まれてきたもので、「クールビス」などという官制の掛け声でも、アパレル産業のご都合からご指導されるものじゃないだろう。言語は放っておけば日々フツーの人たちによって変わってゆく。変わってゆくのはいいのだが、昔のオヤジ連中の「どうも、どうも」や「まいど」などという野卑な日本語ではない、多少なりとも誇れる「人にやさしい」日本語に進化することを考えるときだろう。
2016/5/15