黒光りした起業家(改版1)

大阪府立大学発のベンチャー企業で四苦八苦していたことがある。植物育成研究用LED照明から始まって、植物工場と屋上緑化に事業展開していた。どれも新しい産業のためニュース性がある。なんども新聞やテレビで紹介され、アメリカ系のビジネス雑誌でも、日本を元気にする中小企業100などというお題目でリストアップもされていた。
最大市場は首都圏なのだが、京都の本社からは遠すぎる。京都から出張してでは市場開拓もままならない。首都圏に進出すべく品川に東京支店を作った。話題性でメシは食えない。実ビジネスにすべく市場開拓を進めたが、これといった手ごたえがないまま時間だけが過ぎていった。屋上緑化には多少の期待を持てたが、小さな案件がいくつかあるだけで、とてもメシを食ってゆける規模にはならない。植物工場に至っては自社の植物工場ですら、まともに稼動できずに苦しんでいた。研究室の机上の実験では上手くいっても、それが数百平米の工場となると経験も知識もないに等しい。とても人様に販売できるようなものではなかった。
そんなところに、屋上緑化にしても植物工場にしても、どこからか何を聞いての引き合いなのか、信じがたい話が転がり込んできた。その多くが製造業や不動産業や娯楽産業などの既存事業における閉塞感から生まれたものだった。今までの経験や能力の延長線に留まる限り、閉塞感から脱却して新規事業にはならないという思いからなのだろう。よくぞこれほどまでに、と呆れるというと失礼になるが、誰も彼もが新しいというより新奇なビジネスを探していた。確立された業界の多くが縮小し続けている。そこへの新規参入は難しい。自然と黎明期にある業界に目がゆく。あれこれ探しているうちに屋上緑化と植物工場が目に留まるのだろう。

ある日、本社から電話がかかってきた。川崎にある会社の社長が即社長に会いたいと言ってきた。用件は言わないが、ビジネスの判断が出来る人と話したいと言っているという。そのために京都から出向く気もしなし、京都に出向くまでの気持ちもないようなので、東京の方で対応してくれということだった。要を得ない話には慣れている。そんな問い合わせからでも、何かヒントになるものがあるかもしれない。
早速川崎の会社の社長に電話を入れて、新横浜駅前で待ち合わせることにした。車できたからだろう、ちょっと遅れてきた。挨拶も早々に行き着けの居酒屋に連れてゆかれた。開口一番、役職を聞かれた。取締役と伝えたら、それなら話が早いという。何の話かと思って話を聞いていったら、今日に至るまでの苦労話というのか自慢話を聞かされたあげくが、要件は新しい金儲けの話はないかだった。
大阪の造船会社の職業訓練校を出た職工さんだった。脱サラしていろいろな事業をしてきて、やっと老人介護の事業で成功した。資金の余裕でもでてきたのだろう、屋上緑化や植物工場に投資できないかと思って、京都の本社に電話を入れた。新聞や雑誌でみて、おいしい業界に見えたのだろう。
自慢話ともつかないことを聞いていたら、老人介護施設の医者から電話がかかってきた。席を立ってちょっと離れたところで話をしていた。医者からの話は聞こえないが、社長の声は聞こえる。内容までは分からないが、むき出しの関西弁で強圧的に相手をなじる口調が耐え難い。数分の電話だったが、十分以上の長電話に感じた。席に戻るなり、非常勤で雇っている医師を罵倒するような話を聞かされた。経緯も何も知らない。何を言われても本当のところは分からない。そこにあったのは、金を中心において、そこから全てを判断する価値観と医師の人格まで否定した罵詈雑言のような口調だけだった。
老人介護ビジネスで成功するまでに、さまざまな苦労があったにもかかわらずというのか、あったからなのか、その苦労が人としての成長につながらなかったとしか思えない。実業家として、ご自身の能力の開発や社会にどう貢献するなどという、たとえ上辺だけにしてもありそうなことですら、綺麗ごとの教科書上の話でしかないのだろう。あるのは金儲けだけ、社会もなければ何もない。金に苦労してきて、金以外には何もなくなってしまった「立派な」起業家だった。
ここまで徹底したというのか純粋なというのか、むき出しの金の亡者のような人には会ったことがなかった。今までお会いした起業家と言われる人たちの多くも、何の起業かなどには関係なく、金になれば何でもいい、偉く奉ってもらえる立場になれれば、瀟洒な生活をできればということだけを目的としてきた人たちだった。そのなかから次の社会を背負って立つ人たちが現れてくるのだろうが、多くは、自分の金のために、今の社会と次の世代を食い物にしかねない人たちにしか見えなかった。この人たちがブラックなるものの生みの親なのだろう。
ブラックとまでゆかないにしても、光の当たりようではブラックに近い灰色も多いし、なかには黒光りして輝いていてブラックには見えないのもある。黒光りの輝きに目がくらんで本物と勘違いしてか、勘違いしたふりをしてか賞賛する輩まででてくるから呆れる。
「金の切れ目が縁の切れ目」の世界なら、金のおかげでちやほやされるだろうが、まっとうな人たちには疎まれる。 ちやほやしてほしいのなら、その世界にいればいいものを、外に出てきて巷の人たちを食い物にしなければ、ちやほやしてもらうための原資がでてこない。
人さまざま、いろいろな人がいる。そのいろいろな人たちの誰もが、存在することまで否定されることはないはずなのだが、なかにはいない方が社会の、みんなためという、残念な人たちがいる。
2016/3/13