結果は大して変わらない(改版1)

へアカットだけの床屋も増えて、昔ながらの床屋のお世話になる人も随分減ったのではないかと思う。初めて行ったのは、七十七年にニューヨークに駐在したときだった。何を言われてもピンとこない。その度に聞きなおした。刈り終わるまで日本の床屋との違いに戸惑った。
日本の床屋と比べると、雑とういうのかプロセスが簡素化されていて時間がかからない。それでも刈りあがった頭、日本の床屋と何が違うのか、素人目には何も変わらない。これで十分じゃないか、日本の床屋がかける時間と手間、いったい何なんだろうと考えさせられた。
ヘアスタイルなどろくに気にしない、床屋として仕事のし甲斐のない無頓着な客。そんな客の視点での話、ましてや日本とアメリカの床屋について一対一の正確な比較はできないこと、ご容赦頂いての話にお付き合い頂きたい。

子供のころから床屋でじっと座っているのが苦手だった。生来の不精者、床屋に行ってはばっさり切って、もうシャンプーが面倒という長さになると床屋に行った。適当に短くしてくれれば十分、ヘアスタイルなど気にしない。刈り終わって、眼鏡をかけてチェックなど面倒くさくてしたこともない。さっぱりしていればそでいい。床屋に行っては刈上げ君、二三ヶ月たって流行の長髪だった。

自分でもあきれるのだが、学校(女子は全校に数名しかいない)に行っていたころは、頭を洗うのが面倒で、風呂には毎日入っても、頭は一週間やそこら洗わないことがあった。パラパラと落ちるはずのフケが、油で重くなっているのだろう、すとんと落ちて行く。そこまで行くとシャンプーでは泡が立たない。しょうがないから毛糸洗いの洗剤を使った。頭髪も毛糸もどっちも同じ純毛。毛糸洗いでいいじゃないかって使った。泡立つ泡立つ、モコモコして泡が切れるまでの濯ぎが大変だった。油がすっかり抜けて、さらさらの髪になった。よかったと思ったら、翌日から細かいフケが粉雪にようにさらさら落ちた。洗剤で頭皮が痛んでしまった。

さすがに社会人になって、そんなことはしてられない。女性陣の目も多少は気になる。髭も毎日剃ったし、洗髪も毎日するようになった。極端に短くするのも避けて当時流行の長髪だった。シャンプーもどれがいいか選ぶようになったし、リンスも使うようになった。同期入社の何人かに聞いてヘアトニックを始めて使ったが、ヘアドライヤーは何度使ってもうまく使いこなせなかった。
ヘアスタイルを気にはしだしたが、傍目からはしているようには見えなかったろう。寝癖がついたまま仕事をしていた。そんなのがアメリカのちゃんとした床屋に行って、どこをどうしたいのかと細かく聞かれたら、なんとも答えようがない。英語で知らない単語を並べられて、想像するだけでも気後れする。
本格的な床屋の固定客には年寄りが多いだろうから、その人たちに若い頃の流行が生きているかもしれない。聞かれてろくに分からずにYes、Yesといって、眼鏡をかけたらオールバックだったり、プレスリーのヘアスタイルだったなんて笑い話にもならない。

ヘアカットに行くにしても、最初に何と言っていいのか分からない。社長に「どう言えばいいんですか?」と訊いたら、「Very shortと言えばいいんだ」と言われた。冗談じゃない。社長のヘアスタイルは白菜カットだった。側面は坊主頭のように総刈上げで、上に白菜の葉っぱがついているような感じだった。長髪が流行のときに二十代ができる頭じゃない。
なんと言えばいいのかも分からずにヘアカットに行ったが、ろくに訊かれることもなかった。もごもごショートと言ったら、バリカンの歯を変えて、それこそ隣の店員と世間話をしながら刈り上げてゆく。刈る場所に応じて歯を交換して刈り上げてを何度か繰り返して一丁上がりだった。

心配しながら眼鏡をかけてほっとした。日本で鋏をしゃかしゃかやって時間をかけて刈ったのとどこが違うのか。日本の床屋が見れば、こことここがなってない。あそこもという話になるだろうが、さっぱりしていればいいという者にとっては何も変わらない。ヘアドライヤーで入念な仕上げをしたところで、ちくちくするから家に帰って即シャワーを浴びる。数週間もすれば伸びてきて、仕上げたときとは違ってくる。

日本の床屋に行くとバリカンを使ってもいいかと聞かれる。使いたければ、使った方がいいのであれば、楽なのであれば使えばいい。使ったときと使わなかったときで、結果にどれほどの違いがあるのか。素人−客がどれほど分かるのか。些細な違いのためにどれほどの手間隙をかける必要あるのか、その価値が本当にあるのか、あったところで価値を評価できる客ばかりではないだろう。

似たようなことが料理の世界にもある。和食の板前さんなら包丁一本で「もみじ」でも「さくら」でも「松の葉」でも、客の目の前でささっと切っても「芸」のうちだろう。でも似たようなものを料理の「りょ」の字も知らない人でも簡単にできる。型抜きなら型さえあればいい。さすがに客の目の前でというわけには行かないが、裏で切ったものをだすのなら、どのような方法で切ったところで、分かりゃしない。

何を目的として、何に違いを求めて、何をどうして行くべきか、その対費用効果も考えずに、今までしてきたやり方を愚直に続けることにどれほどの意味や価値があるのか。その意味や価値を判断するのは誰なのか。その誰が果たしてどこまで評価できるのか。何をするにも、今まで以上にコストとの兼ね合いを気にしなければならない時代、「愛情」だの「まごころ」だの、ましてや「おもてなし」などと言う前に、一歩後ろに引いて考えてみるのも無駄ではないだろう。

新卒で入社した工作機械メーカの工場にあった標語「ちょっと待て、もっと楽にできないか」を思い出す。四十年以上経ったが、今でも、その標語の重みは変わらない。
2016/6/12