「つぶやき」が社会を変える(改版1)

拙稿『次の社会に向けた経済理論は?』で、「働く人たちや市井の人たちの社会活動の可能性については、稿を改める」とした。社会活動の可能性について一私見を記す。

動力による機械的な自動化が進化していったが、それを超えた生産性の向上を目指して、人の認識や判断を補完し、代行さえする自動制御技術が開発された。その開発の基には半導体とコンピュータの進化があった。
<半導体について>
技術には疎いが言葉には敏感な人のなかには、半導体など持ち出さずに、コンピュータと一言で言ってしまえばいいものをと思う人がいるかもしれない。ちょっと説明しておく。半導体には、コンピュータの主要構成部品である演算素子やメモリー素子だけでなくセンサー素子もある。実はこのセンサー素子が重要で、これなしでコンピュータだけ持ってきても、自動制御システム(普及しえる)を構築できない。戸が開いた閉まったからはじまって、温度や流量、圧力や明るさなど、自然界のさまざまな状態をコンピュータで認識するには、その状態を電気信号に変換するセンサー素子が必須となる。
自動制御とはなにかという定義をする場でもなし、何をしてコンピュータシステムと呼ぶのかの解説をしだしたら収集がつかなくなる。ここでは、あいまいなまま自動制御の中核にあるコンピュータシステムと自動制御を同義語として使用する。
コンピュータシステムのもたらす生産性の向上と労働環境の変化が、経済的に恵まれた社会層をさらに豊かにし、勤労者の所得を押し下げる社会環境を作り出した。
労使対立が日々のこととしてあった時代の思考の慣性にとらわれていると、労働組合が弱体化したのは、資本とその利益を代弁する政治権力の圧力によるものだと思いかねない。確かに、それは労働組合衰退の大きな要因に違いないが、現実に起きていることを素直にみれば、それだけでは説明しきれないことに気付く。圧力による以上に、衰退は労働環境と社会環境の変化によって必然としてもたらされたように思えてならない。

1)コンピュータシステムが労働組合の環境を破壊した
環境と生物の相互作用を研究対象とする生態学に似た視点からみれば、なにが起きてきたのか俯瞰しやすいかもしれない。アマゾンに自生している植物はモンゴル高原で自生できないし、モンゴル高原に生息している生物はアマゾンの熱帯雨林のなかでは生きられない。生物の繁栄の基にも衰退の原因にも環境の変化がある。変化し続ける環境に順応しなければ生存しえないが、環境に適応していれば、多少の外乱があっても種として命をつないでゆける。カビやコケのように、環境がその生存に適していれば、駆除しようとしてもなかなか駆除できない。いくら資本や政治権力が一掃しようとしても、社会環境が許す限り労働組合は存在しえるし、成長できる。極言すれば、資本でも、さまざまな政治権力にしても労働組合のどれでも、社会環境に最も適応したものが社会の主導権を掌握する。

自動化された(初歩的な自動制御も含めて)生産設備を備えた大きな工場には、何百何千という数の現場労働者が必要だった。そこから組織化され規律正しく働く労働者群が生まれ、労働組合という社会組織が成立しえる社会環境が整った。この状態が産業革命以降、コンピュータシステムによる自動制御の導入が本格化する七十年代まで続いた。そこでは労働組合が資本やその代弁者たる政治権力に対するカウンターバランスとして存在し得た。
半導体の進化によって、八十年代にはコンピュータシステムが事務所だけでなく製造現場にも導入されるようになった。コンピュータシステムが人間の頭脳労働を補完し、しばしば置き換えていった。コンピュータの応用技術の進歩が人間の生産性を革命的に向上した。わずかな数の作業者で石油化学コンビナートや製鉄ラインなどの巨大な生産設備の稼働が可能になった。労働者一人当たりの生産性が飛躍的に向上したが、それにともなって労働者の密度が減り(省力化)、労働者間の関係が希薄になって労働組合がかつてのようには機能し得なくなった。

2)労働組合の限界
日本ではという前置きが必要かもしれないが、労働組合が企業内組合であったが故に、多くの労働者が会社の利益に自分の利益を投影してしまう考え方から逃れられなかった。さらに企業内組合は、社会のなかでそれ自体が一つの利権団体に堕する可能性まで秘めていた。汚染の垂れ流しが環境破壊につながるのを承知で、企業の利益を、その利益からの配当を気にするあまり、自らの労働災害に目をつぶって環境破壊を是認することまでしてきた。企業内での活動に終始した労働組合が、社会に背を向けて企業に阿る存在(御用組合)になっていった。労働組合が社会全体−市井の人たちの利益を代弁するどころか、市井の人たちの目には、企業や権力と同じように反社会的な存在に映ることすら起きる。労働組合は企業内でしか存在しえない組織体で、市井の人たちと協調して一つの政治勢力をかたちづくる存在にはなりえなかった。

歴史が資本や政治権力に対するカウンターバランスとしての労働組合の限界を証明してしまっているにもかかわらず、労働組合の復活を夢見るのは、よくてアナクロニズムでしかない。労働組合が政治に対する影響力をもっていた時代を思うのは、個人のノスタルジーまでに留めておくべきだろう。いずれも次の社会を、より民主的な社会を思い浮かべるときに、思考の足かせになりかねない。
現状とその現状に至った経緯をみれば、労働組合が資本のカウンターバランスとして復活する可能性はない。

3)定型業務と離散した労働者
産業革命によって生まれた組織化した労働体制のなかで、営々と続けられてきた人と人との緊密な関係を基とした労働をコンピュータシステムが分断した。コンピュータシステムとして構築されたアプリケーションソフトウェアが労働を定型化してきた。定型化により労働者の知的判断の自由度が極限まで制限され、そこでは考えるのではなく処理することが求められる。
通信ネットワークでインタフェースされたコンピュータシステムさえあれば、どこにいても仕事になる。そこではコンピュータシステム間のインタフェース−情報処理上の「距離」が問題になるが、労働者間の物理的な距離は問題でなくなる。労働者が物理的に、しばし地球規模で離散した労働体制は、伝統的な労働組合が存在しえる条件を劣化した。
さらに、定型業務が正規雇用者の非正規雇用者による置き換えを可能にした。非正規雇用者の組織化は正規雇用者のようにはゆかず、労働組合の弱体化が進んだ。

4)市井の一私人がカウンターバランスに
企業内組合にしかなれなかった労働組合の社会運動の限界を超えるには、労働組合の組合員としてではなく一社会人、個人としてのありように視点を転換する必要がある。特定の政治団体に所属していようがいまいが、組織の決定に従属せずに、個人の理解と考えで課題毎に、似たような考えや主張に人たちがゆるやかな形で参集できる環境が整っている。
労働組合員が乗り越えられなかった、企業を通して社会を見がちと言う宿痾の軛からも自由に、状況を理解し、意見を戦わせ、個人の責任で社会に参画できる社会環境がある。
企業のためにという古典的な旗印のもとに、正規雇用者や労働組合員に対して企業への忠誠心を鼓舞できたが、非正規労働者−季節臨時工やパートタイムやアルバイトには似たような忠誠心は要求しえない。非正規雇用の労働者は、雇用の安定と引き換えに、何を見て、何を考え、何を発言するかの自由を得た。

産業革命に続く資本主義の発展が組織だって規律正しく働く労働者をつくりだした。資本主義の発展が生み出した労働者が労働組合という社会組織をつくり、資本主義を崩壊する革命を起こすというシナリオを思い描いた人たちがいた。
資本主義が生産性の向上と利益の増大を求めてコンピュータシステムを開発し、それを通信ネットワークでインタフェースした。コンピュータシステムが労働者が物理的に参集し難い労働環境を作り出し、労働組合を衰退させた。
そのコンピュータシステムが、正規労働者も非正規労働者も、市井のフツーの人たちも参集できる通信インフラを提供している。資本主義が生み出した通信インフラが労働者だけでなく、全ての人たちが個人の意思で参集し政治活動を推進することを可能にした。

5)「つぶやき」が社会を変える
正規社員でも非正規社員でもかまわない、顧客でも納入業者や下請け企業の従業員でも、企業とは全く関係のない市井の人たちでもかまわない。誰でも資本や政治権力の横暴を押し返すことができる。コンピュータシステムでバラバラになってしまった人びとには、企業内労組の組合員のように企業に従属してきた人たちには想像もつかなかった自由がある。その自由を、当然責任をもってと前置きしなければならないにしても、一社会人として行使できる環境が整っている。
困ったことをしていることに気がついたら、なにか腑に落ちないことに遭遇したら、匿名でいい、困ったこと、腑に落ちないことをインターネットで発信すればいい。資本−民間企業の経営陣が恐れているのは、行政の規制でもなければ、従業員や納入業者の不満でもない。巷の評判や風説とそこから生まれる市井の人たちのボイコットだ。雪印乳業を思い出せばいい。オランウータン保護を目的としたネスレ叩きもその一例だろう。
史上最高益を謳歌している自動車メーカがある。史上最高益を上げているということは、従業員や季節臨時工からパートタイムの人たち、納入業者や下請けに十分な支払いをしていないことの証左だろう。もっと払えば、働いている人たちの可処分所得が増えて消費も進む。社会全体の好循環も生まれる。もうちょっと鷹揚に金を払わなければ、そんな会社の自動車は買わないようにインターネットでつぶやけばいい。その会社の広告塔になっているような人やものを避けるようにすればいい。
原発反対ならば、原発賛成と主張している、あるは反対行動を報道しない新聞の購読を止めればいい。そんな新聞社が所有している野球チームのゲームなど観なければいい。きちんと報道しないマスコミをボイコットすればいい。同じことが代議士にも言える。原発や安保法案に賛成した代議士を次の選挙で当選させないよう、すでに落選運動が始まっている。代議士が恐れるのは、議員でいられなくなることであって、不明瞭資金を追求されることでも、スキャンダルの発覚でも、原発や安保法案に対する抗議でもない。代議士でなくなれば、美味しい利権にありつけない。
スラップ訴訟で市井の人たちに沈黙をしいる企業が恐れているのも、巷の人たちのボイコットだ。敗訴したところで、多少の金を失うだけだろう。金儲けに影響がでなければ、またスラップ訴訟を繰り返す。
働く人たちを大事にしないブラック企業をボイコットすればいい。巷の人たちの「つぶやき」が社会を変える。

6)隣に前例がある
お隣の国でインターネットへのアクセスを厳しく制限している。なぜ制限しているのか?それは巷のばらばらの人びとがインターネットでつながることで、歴史を創る力になることを恐れているからに他ならない。警察国家に官製マスコミ、人びとに銃口を向けることをなんとも思わない軍隊までいる。そんなところでも、というよりそんなところだからこそ、人びと−フツーの人たちのインターネット上での「つぶやき」が社会を動かす大きな武器なる。

北海道や九州から国会前のデモへの参加は難しい。でも、インターネット上の「つぶやき」なら、その気になれば、誰でも、いつでもどこからでもできる。マスコミやデモは規制できても、あちらこちらで、湧き出てくる人びとの「つぶやき」は規制できない。
人びとの「つぶやき」を無視できない社会になれば、企業や代議士の都合だけでなく、働く人たちや巷の人たちの都合も気にするようになる。インターネット上の「つぶやき」が、企業内組合の限界から御用組合にしかならなかった労働運動より、はるかにまっとうな社会運動に発展する。
政治団体や市民団体など組織の決定に従うということではなく、シングルイシューごとに意識ある人たちがインターネットで参集すれば、本来あるべき民主主義社会が見えてくる。
2016/4/3