和解勧告は職務放棄?(改版1)

米軍普天間飛行場の辺野古への移設で政府と沖縄県が法廷で争っていた。福岡高裁那覇支部が示した和解案を両者が受け入れ、和解したとニュースで知った。新聞記事を読んでもテレビのニュースを聞いても、和解とは一体なんなのかが分からない。Webで見つけた解説記事では、法に照らしてどうのというより、両者が起こしたいくつかの訴訟を一つにまとめて審理をしやすくしたいという裁判所の意向に、両者の政治的判断が和解案受け入れの背景にあると説明されていた。
一歩引き下がった政府の態度を「安倍政権の余裕の表れ」と見る学者がいる一方で、それは六月の沖縄県議選と七月の参院選を前に柔軟姿勢を示すことで、沖縄の反発をかわす狙いがあるという見方がある。反対運動をしてきた人たちのなかには、政府の譲歩を勝ち取ったとして反対運動の成果と見る人たちもいる。

和解案を受け入れて、埋め立て工事を即中断するのはいいが、政府は辺野古への移設の考えに変わりはないと言うし、沖縄県の移設反対の意思に変わりはない。それでも政府は円満解決に向けて話し合いを進めて。。。沖縄県はそれぞれが説明責任をはたしながら問題を解決に導いて。。。反対行動を継続してきた市民団体は、県民の思いで、埋め立て工事を中断できたとしながらも、和解による埋め立て工事の中断は一時てきなものに過ぎない。選挙対策からんだ政府の思惑でしかないのではないかと言っている。

辺野古への移設問題に関する報道を逐一追いかけてきたわけでもなし、訴訟合戦の様相を呈してた係争を理解するだけの知識もない。知識の欠如からでしかないと思うのだが、訴訟合戦に至った両者が、もともとの主張を変えて和解などあり得るのか?あり得もしないのに、裁判所の和解勧告?なぜ?何をどうしようとういうのか分からない。
知識も情報も限られた巷の一私人、素朴な疑問を呈したところで、何がどうなるわけでもなし、自らの無知を露呈するだけだろう。それでも、多少なりとも似たように感じている人がいるかもしれない。

そもそも和解できるようなことであれば、訴訟合戦のような泥沼に入る前に、たとえ実を結ぶ可能性が低いにしても話し合いを続けているのではないか?散々話し合いを繰り返して、話し合いでは決着を付けられないから、第三者−司法の判断を仰ごうと訴訟を起こしたのではないのか?にもかかわらず裁判所から和解勧告がでてきたら、それなら話し合いで方をつけましょうというのがありなのか?そんなことできるのなら、はなから訴訟なんてのしなければいいじゃないか。あって当たり前のフツーの疑問だろう。
和解勧告に対するこの両者の受け止め方に違和感というのか、なんとも腑に落ちないものがあるが、それ以上に裁判所として、ここまでこじれた、それも極めて政治的な、日本のありようについて根本的な問題に対して、和解勧告を出すというのは審議回避に他ならないのではないか?
和解勧告を出して、両者が受けれたとして、和解できるような両者でないことくらい裁判官だって分かっているだろう。どのみち和解などに至らないから、両者の係争が再開するであろうと当事者も含めて誰しもが思っている。
まさか、訴訟合戦になってごちゃごちゃして分かり難いから、一度リセットして扱いやすくして、その間に審議の準備を整えてなどということでもないだろう。裁判所として係争が戻ってきたときに、どう扱うつもりなのだろうかと、素人が余計な心配までしてしまう。まさか政府に都合のいい裁判官に据えかえるつもりじゃないだろうな?

係争の場においては、原告も被告も法にてらして、事実を事実として自らの主張の正当性を主張し合う。立証責任は一義的に原告と被告にある。裁判官はその両者の、それこそ政治生命をかけた言い分を聞いて、法に照らして、どちらにより正当性があるかの判断をするだけではないのか?極端に言えば、審議しなければ、その存在価値のない裁判所が、審議を放棄して、判決を下すのを躊躇してか、恐れてか和解勧告はないだろう。

まさか選挙の結果次第で、両者の政治的な立場というのか、強みや弱みがはっきりして、勝った方に都合のいい判決もでも用意しようというわけでもないだろう。そもそも審議しない裁判所なんか裁判所じゃなんじゃないか?素人の素朴な疑問、あって当たり前の疑問だと思うのだが、司法に期待し過ぎか?
2016/4/24