服従を求めない教育へ(改版1)

選挙権年齢の十八歳への引き下げに伴う文部科学省の通達と、それに呼応した教育委員会のニュースを見聞きするたびに愕然とする。精神の後進性とでもいうのか、規則で人を拘束するしか能のない人たちの知的レベルと、利権拡大に余念のない官僚組織の跳梁跋扈に暗澹としてくる。
人を規則で縛れば、その時々の体裁は整えられても、人の成長や社会の発展の芽を摘んでしまう。こんな単純なことを理解できない知能でもないだろう。起きていることから推察する限りでは、規則で縛ることに自分たちの利権の根源を見出して、それを守り拡大することに腐心しているように見える。

選挙権を満十八歳の人たちにも与えようというのは、いいことだと思う。若い人たちに一年でも二年でも早く社会を実体験してもらえるのは、たとえそれがささやかな一部分に過ぎないとしても、将来の糧にしてもらえるのではないかという希望がある。
問題は、十八歳になるまでに社会人として、学ばなければならないことを学ぶ機会があまりに制限されていることにある。選挙権の行使−投票所に行って投票すると言う行為に至るまでの準備というのか、社会認識を培う機会が十八歳になるまでに、全くといってもいいほどない。校則で社会や政治を自由に考え、参加することを制限してきて、ある日突然、十八歳なのだから、社会や政治を理解しなさいはないだろう。それで、また校則で規制して。。。たまげた発想も、ここまでくると呆れるというより怒りが込み上げてくる。
社会や政治への関与は個人の自由意思に基づくもので、校則で規制はありえない。それこそ憲法ですら保証している民主主義社会の理念の否定以外のなにものでもない。教育関係者とはそんなことすら分からない痴れ者連中なのか?

高校によっては、選挙権行使への準備どころか、普通二輪免許の取得すら禁止しているところさえある。全ての人に公平に法律で認められている権利を禁止する権限などどこの誰にあるのか?確かに事故の可能性もあるし、学業に影響がでるかもしれない。それでも、就職したとたんに、通勤や仕事で二輪や自動車を使わなければならない人もいることを考えれば、早めに運転に慣れておいた方がいい。安全運転の教育なり、学業への影響が出ないようにする教育体系が求められるのであって、禁止すれば事足りるというのは管理であって教育じゃない。この一例をとってみても、高校は管理の場であって、教育の場ではないことの証明のように見える。
運転免許禁止は高校生に対する規制の一例に過ぎず、日常生活にまで校則の規制が及んでいる。教育とは本来規則に盲目的に服従することを求めることではない。たとえ未成年であっても、一個人としての、人としての尊重が根底になければならない。自由とその自由の基に社会人としての責任が問われること−自覚を培うことにある。

制服は、見る側が整然としているのを見て満足を得るためものでしかない。制服を廃止したら、服装が奢侈に走る、高校生らしくない服装になる、だらしのない服装になりかねないと、制服の必要性を主張する人たちもいるだろう。
その主張分からないでもないが、一歩さがって考えてもらいたい。何を着るのかを高校生の自由に任せたら服装が乱れるというのは、家庭や学校だけでなく、社会として強制的に着せた制服なしには教育できないと、自らの能力不足を棚に上げての主張ではないのか?自覚を即す教育が必要なのであって、規則で拘束するところに本来の教育はない。自明の理だろう。
自由と責任の自覚を即すこともせずに規則で縛った教育を続けていけば、良くて指示待ち族しか育たない。社会人としての自覚を培う機会のなかった人たちが社会に出て、反社会的な、人道に反したことを業務命令だからと、仕事だからと繰りかえす。それ、戦時中に上官の命令に盲目的に従った日本軍とどれほどの違いがあるのか?
あえて言わせて頂ければ、文部科学省の通達に是非もなく従う教育委員会や高校とそこにいる教師たち、無批判に上官の命令に従って、戦争犯罪を繰り返した日本軍とどこが違うのか?日本軍には戦時だったという言い訳もあるが、平時の日本軍もどきにどのような言い訳があるのか?

今の社会で都合のいい立場にいる人たちが、自分たちの都合に盲目的に従う、管理しやすい人材を求める。いい立場にいる人たちが社会の大勢ではないはずなのに、その人たちの都合でつくられた規則で次の世代が規制されている。そこには自分で考えて、自分で判断して、自分で責任を負うという人間社会を形作る人としての基本的な能力を培う教育がない。

生徒を規則で縛って管理することを当たり前と思っている人たちしか、教師という職業には就かないのではないかとすら思えてくる。大人相手じゃ偉く振る舞えないから、子供相手なら、それも校則を盾にして内申書を人質に。。。教育界とはその程度の人たちが棲息するとんでもない社会なのかと思えてくる。
小学校から英語の授業と言い出したら、英語を教えられる先生がいない。十八歳に選挙権と言ったら、社会人としての自覚を培う教育を提供しえる教師がいない。あげくが校則で規制することしか考えつかない。準備ができていないのは十八歳になる人たちより、文部科学省や教育委員会も含めた教育関係者ではないのか?

学校は学校内において生徒に勉強をしようという自覚を即す環境を提供することに専念すべきだ。もう二十年も三十年も前から、受験勉強ということでは、進学塾や学習塾にかなわない。受験勉強が勉強だという気はさらさらないが、勉強という学校の存在のもっとも基本の部分で、よほどの人でもない限り、学校にも教師にも大した期待はしていない。この失った期待を取り戻せなければ、誰もまともに学校も教師も相手にはしない。カウンセラーでもあるまいし、生活指導などと口幅ったいことを言って、生徒の私生活にまで口をはさむ能力や権限があるとでも思っているか。生徒の私生活は家庭と社会が責任を負う場であって、学校が出張ってくるところではない。

十八歳選挙権に限らず、文部科学省がやってきたことは、教育をお題目にして自分たちの権限強化や権益や経済的利益の拡大だけではないのか?きっかけは選挙権でもそこらの資格認定でもなんでもいい、都合のいい理由をこじつけてでも監視し監査し監督する規則を勝手につくって支配する。それはもう宗主国が植民地を支配してきたのとたいして変わらない。そこでは教育委員会も教師も関連業者もそれぞれの植民地における末端の管理支配官僚機構を構成し補完する人たちでしかない。

もっとも、ことは文部科学省や教育委員会に限ったとこでない。何時の時代にもどこでも、無能やヤツに限って規則を振り回す。自分がないから寄って立つのは規則しかない。規則になぜという疑問符を発せられても、それは規則だからとしか答えられない程度の知的レベル。規則を振り回すこと以外には自分の存在を示しえないのは分かるが、いい加減に恥をさらすのも止めにした方がいい。あんたが恥をかくのは勝手だが、それでみんなが困ってることくらい分からないのか?そこまでゆくと、いない方がいい人になってしまう。もうとっくになっているか?
2016/4/24