たかが爪楊枝

米国の画像処理メーカの日本支社でマーケティングを担当していたことがある。小さな所帯だが、社長直属の部隊で、社長の思いつきに振り回される疲れる毎日だった。なにかのときに社長と古株のマネージャーが爪楊枝がどうのという話をしていた。何が爪楊枝なのかと思って訊いてみれば、そんな考えもあるのかと思いながらも、そりゃないだろうという話だった。
マネージャーの話では、「日本人というのか日本企業は、アメリカ人やアメリカの企業であれば枝葉末節として気にも留めないことにまで、注意を怠ることなく最高品質の製品を作り上げてきた。その象徴的なものとして日本の爪楊枝がある」とアメリカ本社の経営陣が思っている。本当に思っているのか、都合よく思っていると見えるようにふるまっているのかは分からない。
確かにアメリカのレストランにある爪楊枝は、素材も作りも雑で、注意していても歯と歯の間に挟まって折れることがある。長さはそろっていても、太さはそれはもう使えっこないだろうというくらい細いものまで混じっている。日本の爪楊枝は野球のバットで言えば圧縮バットに相当するくらいしっかりしている。アメリカのといえば、そこいらに落ちていた端材を硬度など気にすることなく、適当に細い棒にしたという爪楊枝でしかない。確かに、日本の爪楊枝は、ここまでかというほどしっかり作られているのに感心する。
感心はするのだが、それをもってして、日本人の仕事の仕方から日本企業の徹底した品質管理の象徴とまで言われると、もうちょっと気の利いた比喩はないのかとあきれる。
そのあきれるとことに輪をかけてあきれることをしたのに驚いた。それもいたずら半分だから性質(たち)が悪い。爪楊枝をビジネスパートナーへの感謝を込めた表彰の道具に仕立てた。気の利いた和食の店にあるような柳かなにかの素材で作った高級?な爪楊枝ではない。牛丼屋にでも、ラーメン屋でもどこにでもあるフツーの爪楊枝を千代紙のようなもので作った袋に入れて、装飾品風に仕立て上げて、文房具屋で売ってるA4程度の大きさの額縁にいれて、表彰の記念品としてパートナーに贈った。
そんな装飾品の体をなした爪楊枝が売っていることも知らなかったし、そんなものを買い求める人がいること、そしてそれについての能書きを垂れる人たちがいることに軽い驚きがあった。ちょっと余計に買いすぎたのだろう、いくつかが事務所に残っていた。見た目はきれいだが、たかが千代紙擬きの紙で作ったちゃちな袋、そこにどこにでもある爪楊枝。爪楊枝を袋から出してまじまじ見たが、昼飯を食った中華料理屋にあったものと何も変わらない。

二年後、京都に本社のあるLED照明メーカに招かれた。ボストンの郊外にあるアメリカ子会社の立て直しを任された。LED照明を買う立場の日本支社のマーケティングからLED照明メーカのアメリカ支社の経営に立場が変わった。画像処理メーカもボストン郊外に本社がある。道路事情にもよるが車で十五分か二十分の距離だった。
赴任して数日経ったある日、セールスマネージャーの部屋の壁に爪楊枝の額縁が飾ってあるのに気が付いた。裸の爪楊枝が額縁の中央に一本、縦に入っていた。そこには千代紙か何かで作った袋がなかった。日本支社のマーケティングが用意してアメリカ本社の送った後で、誰かが額縁から爪楊枝を外して、袋に入れて戻すのを忘れたのだろう。裸の爪楊枝だった。
額に入った裸の爪楊枝をもっともらしいい能書きを垂れて、ベンダーに表彰として授けるという人を小ばかにした文化を、その中にいて知っているだけに許せない。感謝や表彰とはそれを物理的に表すものに価値を求めるものではない。しかし、爪楊枝を使った会社が業界の覇者であり、金満にして傲慢、不遜を絵にかいたような文化を振り回している中にいたものとして、裸の爪楊枝の入った額縁をありがたく掲げておく気にはなれない。
どうも、御社から何かの際に弊社に紛れ込んだのに気が付かなかった。随分経ってしまったようだが、弊社の所有物でもないから、お返ししたいとでも言って突っ返してやろうかとすら思った。事情を知らないセールスマネージャーが、爪楊枝をなんなんだろうと思い、日本人の、日本企業のなんだか分からない「こだわり」に違和感を覚えながらも、大事に部屋に飾ってあることが、その画像処理メーカの傲慢さにひれ伏しているようで腹がたった。セールスマネージャーに経緯と背景を説明して捨てた。
もし画像処理メーカの社員が、壁から爪楊枝の額がなくなっていること気が付いても、それで何か言ってくる可能性はない。送った側の人間、それもそれを準備した部署にいて経緯を知っている人間に対して何も言えるはずもない。見るたびに、まっとうな神経の持ち主だったら、後ろめたさを感じずにはいられないだろうから、むしろ、なくなったことにほっとするだろう。
文化も違えば、価値観も違う、嗜好も違えば志向も違う。それでも受け取った相手に違和感を生む表彰はないだろう。相手あっての自分(たち)、自分(たち)の好き勝手にという会社を内と外から見て、どちらの立場にもなりたくないと思うとともに、もしなってしまったら、何にもまして相手の立場を優先しなければと思う。
水道水を一見いわくありげな器に入れて聖水と呼ぶ、彩色したブリキ板を勲章とする、紙切れ一枚が表彰状になる。どれもこれも表象としての価値をお互いに認める土壌があって成り立つもので、共通の土壌、いってみれば価値観や社会観がなければ、礼を逸する。たかが爪楊枝、されど爪楊枝にはならない。爪楊枝は誰が見ても、どのような説明をしても、ただの爪楊枝でしかない。礼を逸した感謝の念などありようがない。それは相手を見下した傲慢さの象徴としか思えない。そんなもの出す方も出す方だが、それをありがたくもらってというは情けなさすぎる。

もっとも、巷をみれば、この爪楊枝の表彰とたいしてかわらないのが氾濫している。叙勲などといってはいるが、それを価値あるも、意義あるものと認める、認めさせられているからいいものの、冷めた目でみれば、ただの権威づけに乗せられたものでしかない。金では量れないだけに授与する側に経済的な負担がない。権威筋には使い易い、権威になびく人たちは乗せられやすい、都合のいい道具だろう。
ちょっと後ろに引いて考えてみればはっきりする。叙勲を授ける権威の側、あるいはその叙勲などよりもっと権威があると思っている人に叙勲がどれほどの価値や意味があるのか?何もない。何もないものをいかにもあるように見せる、思わせるのが権威の権威たるゆえんだろう。何もないから、信じる限りは犯しがたい。紙幣がいい例だろう。 「しおり」くらいには使える。
2016/1/17