官選裁判官の胸先三寸(改版1)

巷の一私人、司法について何を知っている訳でもないし、法曹界など言葉として知ってはいるが、およそ日常生活では縁がない。それでも社会派や人権派といわれる弁護士先生のご活躍を見聞きするたびに、感動するとともに感謝の気持ちが湧いてくる。
若いころ聞いた話で、記憶も怪しいし、そもそも聞いたことがどこまで事実なのかも分からない。だた、俗な世間の常識に照らして、だいたいそんなところだろうと思っている。司法試験を通って、法律の専門家としての職業に三通りの選択がある。裁判官、検察官に弁護士なのだが、その三者のいずれかを目指す人たちのメンタリティが興味深い。裁判官と検察官はどちらも公務員で弁護士は巷の自由業。公務員と自由業ではありようが大きく違う。
何よりも安定した生活をと思えば、巷の自由業の弁護士より公務員をということになる。どちらも公務員なのだが、裁判官と検察官を目指す人たちで何が違うのか?安定志向の裁判官に権力志向の検察官と聞いた記憶がある。どちらも公務員だから、弁護士ほどの自由もないし、報酬のばらつきも少ない。報酬のばらつきが大きい弁護士のなかで収入を求めれば、人権派や社会派の弁護士は目指さない。経済的な豊かさを求めるのが、古今東西の大勢だろうから、弁護士の中でも人権派や社会派は一握りの先生方に限られるだろう。

若いとき、仲間の活動家がデュッセルドルフ駐在辞令を拒否して解雇された。解雇を不当として身分保全の訴えを起こした。千葉地裁で敗訴して東京高裁に上告していた。東京高裁での口頭弁論も終盤にさしかかったときに、病気でニューヨーク駐在を切り上げて帰国した。活動家仲間には海外支社や駐在員の生活について知っている人がいなかった。千葉地裁で、すでに会社側の都合のいいように海外支社と駐在員の虚像が作り上げられていた。その虚像を潰すべく、東京高裁で総資本のお抱え金満弁護士と計四回言い合った。
一回目の出廷で押し込まれていた形勢が完全に逆転した。虚像と事実、辣腕弁護士をもってしても、はなから戦にならない。二度目、三度目の公判で会社側の主張がウソでしかないことが立証された。弁護団の先生方も含めて誰もがそう思っていた。確信と言いっても言い過ぎではなかった。それは会社の総務人事の人たちも同じだったろう。
公判後の反省会の席で、担当弁護士から大まか次のようなことを聞いた。人事権の濫用は立証された。このあいだの選挙でも左翼政党が躍進して、裁判官にも左翼政党の顔色を見るような雰囲気がでてきた。会社の主張が全面的に覆されたのだから、千葉地裁のようなことはないだろう。それでも、人事権は会社のものという企業のありようの根幹を否定する判決がでるとは思わない。裁判所から示談の話がでてくるだろう。裁判官に期待していいと思う。
おいおい、よしてくれ。やくざでも、もうちょっと丁寧じゃないかという口ぶりの竹内桃太郎と言い合って、何も言い返せないところまで押し込んで、会社側の主張は全て論破したじゃないか。その結果が「裁判官に期待していいと思う」はないだろう。そもそも、身分保全の訴えは職場復帰であって、示談を引き出すことではない。
設計としてもフィールドサービスでも使い物にならない、便利屋くらいにしか使いえない外れた人材だが、一応は従業員。冷や飯食わされるまでで、ちょっとやそっとのことで解雇はされない。それでも東京高裁まで出てゆけば、会社人としてではなく、社会人として生きようとしていることを明示することになる。なににしてもぼんやりしていたが、出廷するには、それ相応の覚悟というのか勇気がいる。その挙句が、「裁判官に期待して」なのか?
本来公正な裁判の場で、憲法から法律から、明文化されてないにしても自然法に即して、社会一般の通念に照らして、理をつくして論陣を張って相手を論破したところで、最後は裁判官の「良識」に頼らざるを得ないというのが日本の司法なのか?もし、裁判官の「良識」より功名や出世の思いが勝ったら、どうなるんだ?裁判官といっても一個人でしかない。その一個人の、いってみれば胸先三寸で白黒の決着がつくというのがこの国の司法のありようなのか?
その裁判官が代議士のように国民の直接選挙で選ばれた人たちなら、形だけにしても国民の総意に基づいて司法があると言えるのだろうが、そうはなっていない。三権分立などと聞こえのいいことを言っているが、司法組織のトップ−最高裁判所の裁判官は内閣が指名する。衆議院議員総選挙の際に付け足しのように国民審査があるが、そんなもの官製のお手盛り情報に、ただ○か×かの茶番でしかない。代議士先生には利権の扱い以外には名前を連呼するだけの知能しかないにしても、形ながらの選挙は経ている。司法を司る裁判官にはそれすらない。内閣(行政)が指名するということは、フツーに考えれば、司法は行政の支配下にあるとしか考えられない。支配下が言い過ぎというのなら、強い影響下と言ってもいい。
おおざっぱな言い方で恐縮だが、今の社会経済体制の基でいい立場にいると考え、もっと都合のいい方に変えよう、少なくとも都合の悪い方に変わっちゃ困ると考えている社会層の使い走りが保守系議員だろう。その保守系議員の頂点が内閣総理大臣。それに指名されて組織のトップ足り得る最高裁判所裁判官とその配下が、憲法や法律に真摯に向き合った結果として−たとえ法律が本質的に現状を肯定し、固定するものだとしても−行政(権力)の意向に沿わない、あるいは社会を既得権益層に都合のよくない方向に変えてゆくような判決を下せるものなのか? なかには専任方法や組織がどうであれ、個人の良識に基づいて判断をくだそうとする正義派というのか硬骨の裁判官もいらっしゃるだろうが、その方々が司法の大勢になりえるとは到底思えない。フツーに考えれば、現行の裁判官は、大勢としてみれば、行政(権力)に、程度の差があるにせよ阿る存在でしかない。
一分の隙もなく論理展開して、相手を完膚なきまで論破したころで、最後は官選裁判官の胸先三寸でしかない現状の司法。それでも社会派弁護士先生方の尽力で、胸先三寸の基礎に良識があることを感じて頂く努力は続けなければならない。それ以外に当面の策がないのは分かるのだが、御無礼をお許し頂いて、社会派弁護士先生にお尋ねしたい。現行の裁判官の任命方法では、裁判官というお役人は判決を下す際に行政の顔色を見がちになると思うのだが、巷の俗人の勘違いなのだろうか?もし勘違いでないとしたら、司法の独立を確立するにはどうしたらいいのか?
もし、勘違いでもないけど、現行でいいとお考えだったら、フェアでない審判のもとでゲームをしている野球やサッカーのようなことにならないのか?それを承知で社会派弁護士として活動されているんですよねって訊きたくなる。ご活躍には感謝と感動あるのみなのだが、一歩下がっての穿ったみかたで恐縮だが、それ、間接的に現状のフェアでない司法のありようを是認していることになりやしないかとお考えになられたことありますかと、また訊きたくなる。立派な先生方に不躾な質問で申し訳ない、巷のオヤジの素朴な疑問、ご容赦を。
2016/2/21