信なくば立たず、疑なくしては生きられず

アメリカ系三社とヨーロッパ系四社で仕事をした経験からなのだが、両者の間には、埋めがたい文化の違いがあるように思えてならない。ヨーロッパ系四社の内訳はドイツ二社、オランダとスイスがそれぞれ一社。ヨーロッパ系の会社に雇われて、そのたびにどう説明していいのか分からないイヤな気持ちになって、アメリカ系といったい何が違うんだろうと考えてきた。
アメリカ系がいいとかヨーロッパ系がいいとかという話ではない。アメリカ系にも、それはないだろうというイヤなところはいくらでもある。それは日本の会社でも同じなのだが、ヨーロッパ系にはいい悪い、好き嫌いとは種類の違う生理的な嫌悪感をもよおすものがあった。
個人的な嗜好による偏見と独断でしかないのではないか、なにかとんでもない勘違いをしているのではないかと、つらつら考えてきたが、出した結論に大きな誤りがあるとは思えない。

両者の違いは、気候風土と歴史に培われた、人々の精神のありようの奥深いところの違いに由来しているとしか思えない。長年に渡って近隣の人たちと合従連衡を繰り返し、争いが絶えなかった。そのうえ、中世には、キリスト教正統派(ローマ法王庁)の教権と国家の成立過程が緒についた国権との権力争いのなかで人びとが押しつぶされ、異端派弾圧とその弾圧の過程で日常化した密告と背信が渦巻いていた。そんな社会で生きながらえてきた人たちの文化の奥深くに歴史が埋め込んだ「不信」があるように思えてならない。
そこに、先の戦争ではナチスの手先に積極的になった人たちと消極的に“なる“しかなかった人たちが、身の保全のために密告しあってきた歴史まである。東欧に至ってはつい最近まで密告の文化がはびこっていたし、もしかすると今もそうかもしれない。今日の知り合い、同僚やお隣さんに限らず、遠い近いの親戚連中の誰もかれもが、密告されるのではないかという恐れから、誰に対しても気も心も許せない。全ての人をまずは敵対者として接し続ける心構えが必要な社会が背景にあったし、今もありつづけているように見える。そこでは、あらゆることが疑念と不信から始まる。
文化や科学に経済の世界で大きな役割を果たしながらも迫害され続けてきたユダヤ人と、積極的にか消極的にかの違いがあったにしても迫害してきた人たちの間に、「信なくば立たず」という人間関係の根幹にかかわる考えが生まれる余地があるとは思えない。「疑わなければ生きられず」が好き嫌いではなく現実だろう。

大きく転換しようのない、流動性に欠ける閉塞した階層社会においては、誰かのプラスは他の誰かのマイナスにしかならないというゼロサムゲームのような心情がつきまとう。新顔が入ってきたとして、俺の知っていることをなぜ教えなければならないのか?教えることによって、俺の立場がよくなる可能性があるのか?教えれば俺に対する競争者を一人増やすことになるのではないか?年齢的にも将来のある人材であれば、独り立ちしたとたんに、歳をくって給料やその他のコストの高い俺がレイオフされるのではないか?ここで知識を吸収して、同業他社にうまく転職でもするつもりで来ているのではないか?考え出せばきりがない不安がある。

多くの日本人が誤解しているというのか、目につく特異な状況を一般化してしまうという認識の落とし穴といでもいうものから、アメリカ系の企業は簡単に雇って簡単に解雇すると思い込んでいる。そのような企業はアメリカ企業だからということでなく、世界中、日本にもいくらでもある。
アメリカ系の企業では、新入社員に一日も早く、期待しているかそれ以上のパーフォーマンスを生み出してもらえるように体系だったトレーニングが用意されている。業界や企業、雇用形態によって用意されるトレーニングも様々だが、日常業務を通してというオン・ザ・ジョブ・トレーニングしかないというケースは少ない。
雇ったとたん、雇った人材を最大活用しなければならいという雇った側の責任が重い。即の、あるいは中期的には戦力になりうるポテンシャルを持っていると判断して雇ったにもかかわらず、いつまでたっても立ち上がらなかったら、雇われた側の問題もさることながら、雇った側−雇用を決めたマネージャの責任と能力が問われる。
雇われた人(たち)は、たとえ表面的であったとしても雇った人たちのチームの一員として迎えられる。自己紹介早々、「welcome on board.」という言葉をかけられる。「乗船」から派生した言い方なのだろう。順風満帆な航海ばかりではない。仕事も同じで、いいことより辛いことの方が多い。そのなかで苦楽を共にしよう、お互いチームの一員として頑張ろうという、声をかける方も、かけられ方もお互いの信頼の意思表示から始まる。そこには、お互いの信頼を醸成する文化がある。当然だろう、チームメート同士がお互いに疑い合っての共同作業などありえないのだから。

ヨーロッパ系の企業に雇われて、たとえ表面的であったとしても似たような言葉をかけられたこともないし、カタログ以上の知識を分けてもらったこともほとんどない。ないといいきってしまってもいいのだが、ほとんどといったのは、多少のたいした役にもたたない些末な知識の、もったいぶったお裾分けのようなものはあった。
日本支社の事業は気にはなるが、それが自分が長年かけて営々と蓄積してきた知識を無償提供することをよしとする考えにはつながらない。知識は、トレーニングの文化も体系もないなかで、個人個人で吸収してきた個人の資産と考えられている。日本支社の成績が上がれば、相対的に自分たちの成績が上がっていないことになりかねない。自分たちの成績が上がらなくても、日本がそれ以上に悪ければ、自分たちは優良と判断されるくらいにしか考えていない。
それは、ちょっと廃(すた)れたが感があるが、一家として苦楽をともにすることを常識というより美徳としてきた多くの日本人には異質の文化に見える。厳しい歴史に培われた不信と料簡の狭さがヨーロッパの体質となっている。そこにアジア系を下に見る人種差別の意識が働けばどうなるか?問うまでもないだろう。

ヨーロッパ系の企業に長いと、人を信じるおおらかさを失ってしまうのではないか、人と人との出会いを活かそうとするより、疑ってかかるのが当たり前になって、疑いから生まれるであろうストレスすら感じない人間になってしまうのではないかと不安になる。
頭の乱視のせいなのかもしれないが、アメリカ系の企業では、たとえ表面的にせよ「信なくば立たず」を日常的に感じるが、ヨーロッパ系の企業では「疑なくしては自分が危ない」を感じる。
そんなところでも、人は生き延びなければならない。あるべき理念より疑いに端を発した陰湿な日常生活があたりまえになる。そこでは言うべきことを口にせずに、密告や裏切りの「功徳」によって人が生き延びる。
厳しい社会で生き延びるのに必須のことなのだろうが、できればそんな考えがなければ生き延びられない社会にはいたくない。ヨーロッパ系の四社、ひょんな縁からお世話になったが、早々にお暇(いとま)させて頂いた。何時までもいられるところでも、いるところでもない。いちゃいけないところと言っても言い過ぎじゃない。
2016/5/1