人種差別−小学校四年生の宿題(改版1)

「人種差別はなぜあるのか?」と訊かれれば、何をいまさらと思う方が多いだろう。実は、これ、ボストン郊外のレキシントンという町の公立小学校四年生にだされた社会科の宿題だった。
もう十五年ほど前になるが、ボストン郊外にあるアメリカ支社の立て直しに家族もつれてでかけた。ボストン辺りに日本人学校があるわけもなし、私立に入れる余裕もない。子供は公立学校に送るしかない。独身ならボストン市内も悪くないが、就学年齢の子供を抱えると、どうしても子供の教育を優先して落ち着いた郊外の町に住むことになる。

それまでにアメリカの会社二社で仕事をしてきたことから、ボストンには知り合いのアメリカ人が何人もいた。知り合いの一人からのアドバイスもあって、市内からちょっと西にでたレキシントンのアパートに決めた。聞いた話では公立学校の予算は不動産税でまかなわれている。そのため公立学校の質は所在地の貧富を直接反映する。中流家庭が多い地域の学校であれば、教育予算にも恵まれているし、生徒も家庭の文化をそのまま学校に持ち込んでいるから、安心して子供を送り出せる。
ボストンとその周辺は全米のなかでも教育レベルが高い。そのなかでもレキシントンの公立学校はとびぬけて高い。別の知り合いに言わせると「フツーのサラリーマンではレキシントンは高くて住めない」「医者や弁護士など手に職をもった中流階級が多くて、お高くとまったイヤな町だ」確かにその通りで馴染みにくい町だった。

小学校に通いだした二人の子供がしょっちゅうプロジェクト、プロジェクトと騒いでいた。社会や理科の授業では生徒が自分(たち)で課題を決めて、調べて、実験して、調査結果なり実験結果をまとめて、自分(たち)なりの結論をだすことを求める教育を進めていた。課題決めから始まって、結論出しまでの作業をプロジェクトと呼んでいた。
社会科のプロジェクトもさまざまで、ギリシャ文明の成り立ちを調べるものから、ネイティブアメリカンの歴史を調べ、自分たちの新聞つくりなどというものもあった。そこで出てきた宿題の一つが「人種差別はなぜあるのか?」だった。

図書館に行って参考になる本を借りて調べれば、歴史的背景などの理解を深めることもできるが、最後は社会を見る自分の視点を設定して、そこから、これこれこうで、こういう理由で人種差別がある、あるいはなくならないと、ロジックを展開して自分の考えを主張しなければならない。社会でも理科でも、事実を事実として把握して、その事実をどのような視点からどのように理解して、その理解に基づいてこう結論すると、相手に説明することが求められる。
日本の教育で育った者には、プロジェクトと言われても、何から手を付けたらいいのか見当がつかない。理科の実験など事実が事実としてでてくるものは、まだなんとかなるが、「人種差別がなぜあるか?」はちょっと手にあまる。子供に相談された女房から、どうしようと相談された。仕事で忙殺されていて、プロジェクトには手を貸す余裕がなかったし、よほどのことでもなければ勉強の相談を受けることがなかった。家族がオヤジは頼りにならないと期待していなかった。

人の出入りのないミネソタ辺りの中西部の田舎なら、移民した当時の人たちの末裔がそのまま住んでいて、人種的、文化的に単一性が保たれているところもあるが、ボストンや周辺の町には世界中から多種多様な人々が入ってきて、ちょっとした人種のサラダボールの感がある。白人優位の社会であるが、その白人の中にもいろいろな人たちがいる。その誰もが自分のルーツをなんらかのかたちで持ち続けている。そこでは、はっきりそう言えるか言えないか微妙なことも多いが、しばし明らかな人種差別がある。ただ生活をしているだけで、人種差別とはなんなのか、なぜあるのか、なぜなくならないのか、なくらない理由は。。。。考える環境におかれる。

現象として起きる人種差別のルーツとしてさまざまな理由が挙げられたとしても、つきつめれば経済格差に集約される。経済格差が教育の機会や環境をへて次の世代に引き継がれてゆく。ただ小学四年生に広く社会や歴史を鳥瞰した説明を求めている訳でもないだろう。この宿題の目的は、日常的に接する社会問題に注意を払って、なぜその社会問題が解決されないまま続いているのかをロジックで説明させることにある。何をどう見ようが一義的な答えや説明があるものではない。女房と子供にざっと説明して、あとは子どもが考えて、まとめるだけだろうと言った。

アメリカほどでないにしても日本にもあからさまな人種(人種内)差別がある。差別は差別される側では感じても、する側はしていることに無頓着なことが多い。それでも注意していれば、必ず差別が見えるし、自分自身の嗜好や考えをちょっと掘り下げれば、差別の種は誰にも、どこにでもある。
日常的にある差別がなぜ起きるのか?と考え、自分自身に説明しようと試みたことのある日本人がどれほどいるのだろう。小学校や中学校の先生方のうちで、どれほどの人たちが試みたことがあるのだろう。
次の世代の教育に携わることを職業としている先生方、もし、「人種差別はなぜあるのか?」という宿題を出されたら、慌てることもなく理路整然と数ページのレポートを書きあげられるのだろうか?個性の尊重とか、もっと自由な発想でなどいう掛け声とは裏腹に画一化され、評価し易い教育方法しか扱えない先生方に、果たしてアメリカの小学校四年生が提出した「人種差別はなぜあるのか?」に対する説明を評価する能力があるのか?
いつも一義的な答えのある設問に一義的な○×の回答、それを機械的に処理する、生産性のいいマスプロ教育に専念してきた先生方にそんなことを期待できるのか?期待するのは酷なのか?酷かどうかは別として、そのような教育しか提供しえない教育体系では次の世代に申し訳ないと思う、最低限の自責の念はあるのか?

イギリスの元首相BlairがEducation、Education、Educationと言ったのを受けてフィンランドの誰かがTeacher、Teacher、Teacherと言ったと聞いている。人種差別、突き詰めれば文化の一部、その文化を次の世代に引き継いでゆく教育の問題にゆきつく。教育問題は、教育される側の問題である以上に、絶対的に家庭も含めた教育する側の問題で、差別が存在することを避けて通るとでもいうのか、認めようともしない教育から差別の少ない社会へ向けてなどあるとは思えない。
2016/5/22