格差が人を活かす(改版1)

経済的に恵まれた社会層が豊になる一方で、本来なら中間階級を構成するはずのフツーの人たちが貧しくなっている。大企業(豊かな社会層)が利益を求めて、働く人たちの雇用も賃金も抑えてきた結果、ワーキングプアという言葉を奇異に感じることさえなくなってしまった。そのせいもあって、格差と聞くと、即所得格差や賃金格差などの経済格差を思い浮かべてしまう。

高度成長を通して、一億総中流などという言葉が当たり前だった、安定した将来を思い描けた時代があった。そこで培われた社会観もあって、広がり続ける経済格差にはネガティブなイメージしかない。ほとんどの人たちが、格差はない方が、できるだけ小さい方がいいと思っている。

安定した、できるだけフェアな(平等な)社会を、そして差別のない社会をと思えば、格差は少ない方がいい。誰も正面切って反論などしようがない。しかし、ちょっと考えれば、しかしと言わざるを得ない点がいくつもある。
そもそも格差がない社会などありえるのか?歴史をみても、古今東西格差のない社会などあったことがない。いくら人の知的レベルやモラルが向上して社会が進歩しても、格差が人間のありようの本質的なところ−絶対値だけではなく他者と比べて、もっとよくありたいという夢や欲から生まれているだけに、なくなるとは思えない。できることは、格差があることを前提に、格差が生み出す問題を多くの人たちにとって許容しえるレベルまで縮小する努力と、ネガティブにしか作用しないと思える格差を活用し得る社会と常識というのか人びとの考えをつくってゆくことだろう。

ちょっとしたステレオタイプした仮定を使う。ここに二つの会社ある。一つは昔ながらの日本の企業で、もう一つはよくあるアメリカ企業の日本支社。この日本とアメリカの二社、例として挙げているだけで、お役所と急成長している民間企業に置き換えてもいいし、それ以外にも似たような好対照はいくらでもある。

日本の会社では人事考課も随分変わってきてはいるが、基本的には学歴と年功序列で、余程のことでもなければ、その基本を崩してまでの昇進も昇給もない。極端に言ってしまえば、死ぬほど頑張っても、適当にやっていても評価にも給与にも大きな違いがない。そこでは周囲の人たちとの調和を優先し、みんなと同じように働いて、同じようにさぼらなければならない。それができない人はその小社会で異物として疎外される。職責や実績が違っても、その違いが給与に与える影響は限られている。それは格差の少ない階層社会で、そこにはあくせくすることなく、してもしょうがない、してはいけない暗黙の合意に基づいた、人それぞれに分相応の生活がある。

アメリカの会社の日本支社では雇用契約の段階から職務も付随する責任もかなり明文化されている。人事考課の内容もそれなりにオープンで、業績や能力次第で評価も対価としての給与にも、日本企業に比べて大きな違いある。職階と業績に応じた評価が故に、従業員間の所得格差も大きい。頑張れば頑張ったなりの評価に給与がついてくる。そこには逆の面もあって、お茶を濁すような仕事をしていれば、遠からず解任もあれば解雇もある。格差の小さい日本の会社に対して、格差の大きなアメリカ企業の日本支社。格差が広がり続けている今日日、格差の小さな日本の企業の方がいいと考える人が増えているかもしれない。

ここで人としての姿勢というのか、真面目さと努力や向上心の視点から見たときに、多くの日本人がどちらのタイプの人たちを高く評価するかを考えてみると興味深い。ほとんどの人たちが、お茶を濁したような仕事の人たちより、真面目に一所懸命働こうとする人たちを高く評価するだろう。高くは評価しても、その人たちの労働や努力に報いる対価では過分にならないように、頑張った人も、頑張らなかった人も、そこそこ似たような対価を用意すればいいという、ある意味矛盾した、しかし安定した社会をと思えば、それもしょうがないという問題やアンフェア(不公平)が生まれる。

いくら頑張っても、適当にやった人とたいして変わらない評価と対価しか得られないのであれば、一所懸命働きたい、頑張りたいと思う人たちが、それ相応の対価を提供する会社に移りたいと思うのも人情だろう。となると、一所懸命頑張ろう、自分の能力を向上させなければと思う人たちはアメリカ系の日本支社に、適当にやればいいやという人たちは日本企業に集まるのを避けられないのではないか。
その結果、アメリカ系の日本支社の方に覇気のある優秀な人材が集まって、そこまでには至らない、卑近な言い方をすれば、あまりやる気のない人たちが日本の企業に集まることにならないか。もし、そうなったら、おそらくそうなるだろうが、必然として両者の間の業績にも目に見える違いがでてくる。社会に対する貢献の視点でみたら、多くの人たちはどちらの方が好ましいと思うのか?あえて問うまでもないだろう。

格差はない方が、できるだけ少ない方がいいと思う一方で、その格差が、あえてゆえば大きな格差が一所懸命働こう、頑張ろうと思っている人たちの社会に対する貢献を引き出すものとなっていることを認めないわけにはゆかない。一所懸命働こう、頑張ろうと思っている人たちを活かせない社会は閉塞し衰退する。ということは、人を活かすには格差、それも(そこそこ)大きな格差が有効ということにならないか?

格差を階段にたとえれば分かりやすいかもしれない。階段が二三段しかなければ、上がるの上がらないのの話にはならない。そこでは、あるがままなりの社会があるがままなりに、まるで時間が止まったかのように続いて行く。千年二千年と変わることなく続いている社会がある。
それが十段、二十段。。。になってくると、上がろうと頑張る人と上げるのが面倒と思う人たちに分かれる。百段、千段、さらに数万とか数十万段になれば、上がれる人が上がっていって、多くの人たちは上がったところまでが上がったところになる。
階段も一つでないだろう。江戸時代には士農工商−身分(出自)によって登れる階段が決められていた。社会が硬直し閉塞すると、封建時代のように、出自によって登れる階段が決まってしまいかねない。
こう考えてくると、誰もが階段を自由に選んで登る資格や権利が保障され、保証されるだけでなく、その資格や権利の履行が社会的に奨励されればいいだけの話に思える。

格差と聞くと、できるだけ少なくしなければと、ほとんどパブロフの条件反射のようにマイナスのイメージしかないが、格差はいつの時代にも、どこにでもあって、なくそうとしてもなくなるものではない。できることは、しなければならないことは、どう使うかでしかない。いい格差とか悪い格差、大きい小さいの話ではなく。うまく折り合いを付けて人を活かせる格差を保ち続けなければ、社会も人もよくはならない。一義的に格差はなくさなければ、小さくなければならないと思うのは、あまりに稚拙に過ぎる。大きさも含めて格差は必要不可欠で、それをどう使いこなしてゆけるかが求められている。
2016/6/19