次の経済理論は?(改版1)

社会や経済がどうなっているのか、これからどうなってゆくのか、どうすべきなのか。いくら考えても、これといった答えらしきものが見つからない。素人が一人で手に負えるような問題でもなし、答まではゆかないにしても、なんらかのヒントぐらい得られるかと、思い当たる演題のセミナーに出かけた。演題にはグローバリゼーションに対抗するとか、新自由主義がどうの、資本主義はどこに向かうのか、話題にあやかってでもないだろうが、ピケティの名をあげたものまであった。

高名な先生方から、現状の説明に留まらない、次の経済社会体系への体系だったお話もお聞きできかとると期待していた。情けないのだが、お伺いしたことを理解する能力が足りないのだろう、新しい視野が開かれるような話があったようには思えない。野卑な言い方で恐縮だが、素人目には大仰だった演題が、まるで週刊誌やスポーツ新聞の見出しのようだった。

どのセミナーでもお話は似たり寄ったりで、お聞きできたのは大まか次のようなことだった。グローバリゼーションのせいで世界でも国内でも拡大し続ける貧富の差、環境破壊や資源の枯渇。。。それに対抗する村おこしのような地域社会の活性化や地域通貨、人種や難民問題から生まれる社会の右傾化、その右傾化に抵抗する形で生まれつつある若い人たちの政治化。。。
あちこちの研究者や研究機関が発表したデータを引用して、所得格差の極端な拡大を問題とするお話にどことなくズレを感じる。データを使って社会問題−状況を伝えるのはマスコミの仕事だろうし、見える状況をいくら詳細に説明したところで、ジャーナリストに過ぎないのではないか。何が社会問題の根本原因で、どうやってその原因を解消するのかという話にならなければ、どこに経済学者としての顔があるのか。
所得格差が拡大し続けるのは、正規労働者が減って(非正規労働者が増えて)、かつてのように資本のカウンターバランスとしての労働組合がないから。。。というお話には、カウンターバランスとしての労組が力をもっていた時代への、その時代までの経済理論へのノスタルジーのような響きさえ感じる。

油職工になりそこなった巷の一私人、何が分かっての話ではないが、経緯も含めて現状の理解をざっとまとめておこうと思う。どのみち素人の理解、特別なことはなにもないが、この俯瞰なしには、新自由主義だのグローバリゼーションだと言ったところで、言葉遊びに終始して、問題の根幹辺りにたどりつけそうな気がしない。並み居る先生方から、素人が何を言ってるのかと、一笑に付されるのはもとより覚悟の上。それでも無駄ではないだろう。

1)生産性の向上が必然として格差を生む
人類の歴史は人間一人当たりの生産性を向上する努力の歴史でもある。農耕具としては、こん棒しかなかった時代から石器から鉄器の農具を使った時代へ、さらに水力や風力に牛馬の力の利用に。この牧歌的な生産性向上の流れを大きく変えたのが産業革命だった。水力や風力に牛馬の使用に限定されていたところに、新しい動力として蒸気機関から内燃機関、さらに電力を手に入れた。牧歌的な生産性から工業というかたちの生産性向上が始まった。
動力を活用した製造設備や自動機械の開発が進んで、肉体労働が軽減され、人間一人あたりの生産性が飛躍的に向上した。ただ、この生産性の向上は制御と呼べるような制御のない自動(文字通り)化した機械のよるもので、そこではまだテクノクラート(管理者や熟練工)とその下で働く多くの人たちが必要だった。テクノクラートによる状況認識や判断のような頭脳労働の領域での次なる(革命的な)生産性向上には半導体の発明と進歩を待たなければならなかった。

初期のコンピュータは真空管(後にはリレー)で構成されていて、生産現場で活用できるようなものではなかった。半導体が進化して七十年代にマイコンと呼ばれるものが実用化され、八十年代にはコンピュータが生産現場に導入されるようになった。そこで個々の機械や装置の制御から生産状態の統合監視制御までがコンピュータの応用技術とて確立されていった。
コンピュータの応用技術と通信技術の発達によって、生産現場や事務所から経営に至るまでがコンピュータシステムで統合管理できるようになった。当初は一工場内や一事務所内、一企業内に限定されていた通信ネットワークがインターネットの出現で地球規模で結合された。

動力の導入による生産性の向上とコンピュータの応用による生産性の向上には、もたらす生産性の向上の規模に比較しようもないほどの大きな違いがあるが、それ以上に労働を社会の視点で見たときに革命(破壊)的な違いがある。いずれの場合も設備やシステムを発案し、設計し構築してゆく人たちと、設備やシステムを使って労働する人たちに労働者が大きく二分された。設備やシステムの導入によって、労働者による全体を網羅した労働だったものが作業工程に分割した単純労働に置き換えられた。古典的な例がフォードが確立した生産体系だろう。

動力により自動化された生産設備では何百何千という数の現場労働者が必要だった。そこから組織化され規律正しく働く労働者群が生まれ、労働組合という社会組織が成立しえる社会環境が整えられた。
そこに人間の頭脳労働を補完し、しばしば置き換えるコンピュータシステムが導入さると、わずかな数の作業者で石油化学コンビナートや製鉄ラインなどの巨大な生産設備の稼働が可能になる。対人業務の典型で、人による認識や判断が必須と思われていた銀行の窓口業務のATMへの置き換えも分かりやすい例だろう。金融機関で融資を検討するにも独自に開発した多変量解析アルゴリズムを活用している。KKDと揶揄される人の「経験」と「勘」と「度胸」からコンピュータを活用したデータ処理と解析の時代になった。
そこではコンピュータシステム間のインタフェース−情報処理上の「距離」が問題になるが、労働者間の物理的な距離は、それも地球規模で、問題でなくなる。労働者が物理的に、しばし地球規模で離散された労働環境では、伝統的な労働組合は存立しにくい。

さらにコンピュータシステムで統合監視制御できる生産設備では、操業するための作業者の能力や質への依存度が低減する。その結果、設備さえあれば、それがアメリカにあろうが、中国でもインドでも、どこでも似たような品質の製品を製造できるようになる。国境を越えて生産設備やシステムを発案し構築する人たちと、生産設備やシステムを使うだけの、あたかも個々のローカルな生産設備やシステムに付属したかのような労働者に二分される。

自動化とコンピュータの活用により、限られた数の優秀な労働者が開発者に、ブルーカラーからテクノクラートになるとともに、テクノクラートになれなかった多くの労働者が単純労働へと追いやられる。労働は単純化された定型業務に分解され、いつでも置き換え可能な、技能という技能を持たない非正規労働者が増える。
生産性の向上の程度が大きければ大きいほど、生産性向上を可能にするシステムを発案する人たちと、それを構築する人たちの社会的地位が向上し、それ以外の人たち―生産設備を使う人たちとの経済格差が大きくなる。
自動化までであれば、中学校程度の理科や家庭科の知識でも理解できないこともない。そこには仕事を通した経験による現場上がりのテクノクラートが生まれる可能性が残されている。ところが、コンピュータシステムで何がどう処理されているのかを理解するには高等数学までが必要になり、現場上がりテクノクラートは希になる。

コンピュータシステムを活用した社会でテクノクラート層として禄を食むには、高等教育以上の教育を受けていることが必須となる。大学は出ていて当たり前、それを超えた領域での教育レベルの競争になってゆく。高等教育以上に子供を送れる社会層と送りにくい社会層に、もともとは労働者の社会層として一つの社会層だったものが二分される。この二分された社会層間の経済格差が教育の機会の不均等をもたらし、社会層間の経済格差が世代を超えて引き継がれる。階層間の流動性が低下し、貧富の差の固定化が進む。
科学の進歩、工業技術の発展が働く人たちをテクノクラート層と非テクノクラート層への二分化を進める。引き続く発展が既存のテクノクラート層を次の時代のテクノクラート層と非テクノクラート層に二分化する。これが繰り返されて、限られた数の上層のテクノクラート層とそれに仕えるテクノクラート層への富の集中が進む。

2)生産性向上によって得られた富は誰のものか
生産性が向上すれば、より多くの富が得られる。得られた富を誰が所有するのか、支配するのか?生産性向上を可能とした技術開発と生産設備に投資した資本の所有者なのか、その設備を使って富を作り出した労働者なのか?この辺りは既にマルクス経済学で論証し尽されている。ただ、マルクスが見た社会と現在では社会環境にひとつ、大きな違いがある。マルクスが分析した社会には組織化された労働者が社会層としていて、労働組合が成り立つ社会条件が整っていた。その社会条件がコンピュータの活用で崩壊した今日、労働組合がかつてのようには存続しえなくなった。では、資本に対するカウンターバランスとしての労働組合に代わるものはないのか?一部の人たちへの富の集中、広がり続ける経済格差の解消に向けた活動するのは誰なのか?
労働の場での人の集まりを基礎とした労働組合を置き換えるものとして、市井の人々が個人の意思でシングルイシューごとにインターネットで集散する「ベ平連」のような運動が考えられる。働く人たちや市井の人たちの社会活動の可能性については、稿を改める。

3)もう一つの生産性向上
1)の社会全体の富の増加を求める生産性の向上に関係なく、資本の立場での生産性を向上する方法がある。 民間企業も含めた経済組織体の利益は、大雑把にいえば、入りから出を差し引いたもの−収入から経費を引いたものになる。収入が増えれば、経費を削減できれば利益が増える。技術開発の停滞や需要の減退などなんらかの原因で、1)でいう社会全体の富を増やす生産性の向上が望めなくなったとしても、経費を削減できば利益が増えて、生産性が向上したのと同じ結果が得られる。収入を増やしても同じ効果があるが、市場での競争が収入の増加を難しいものにする。いきおい客の都合−収入の影響を受けない経費削減に目がゆく。一円高く売るより一円安く買うことの容易さを想像すれば分かりやすい。
経費を削減するというと、道徳的な「美徳」の響きがあるが、ここでいう経費の削減は道徳的に見れば反社会的行為に等しい。経費削減とは、従業員や非正規労働者の給与や厚生を削減する、納入業者や下請け業者への支払いを減らすことに他ならない。行政に働きかけて減税や税制優遇などを得られれば、経費を削減できて生産性が向上する。

経費削減−自社以外の組織や人たちの利益を自社に取り込めれば−人様に経済的犠牲を強いれれば、生産性を向上できる。これが八十年代以降、新自由主義の旗のもとに進められてきたことに他ならない。
新しい技術を開発するにも、新しいビジネス形態を創造するにも時間も金もかかる。かかった挙句に目論み通りにはいかないことも多い。であれば、全体の富を大きくしようとするより、人様の取り分をかすめ取った方がいいと思うのがでてくる。それに大した投資もいらないとなれば、こんなあんちょこで美味しい生産性の向上はないということになる。

ただし、この生産性の向上には大きな問題がある。大企業や富裕層に富みが集まるに従って、一般大衆の購買力が低下してゆく。一例としてあげれば、若い人たちが昔のようには車に乗らなくなっているし、新車登録の半分が軽自動車になっている。日本のように少子高齢化社会では、それでなくても将来需要が拡大する可能性が少ない。需要の拡大を望めないところに民間企業や富裕層の投資は進まない。大企業や富裕層の余剰資金は国内ではなく、成長を期待できる海外に向かう。日本の勤労者の賃金を抑えて、税制上や産業奨励の優遇を得て、一般大衆の生活を圧迫して、一言で言ってしまえば、日本人を食い物にして、日本を代表する優良企業の顔をして海外に出てゆく。

<余談> 何時まで現在の傾向が続くか分からないが、興味深いことが起きている。日本が世界で最も安定した海外資産保有国ということから、円が避難通貨と考えられて円高傾向が進んでいる。円が高くなれば輸入品のコストが下がり、物価押し下げに作用して、デフレ傾向になる。テレビをつけたら、首相が円高というのは経済政策が功を奏していることで誇るべきだと言っていた。あれ、インフレに誘導するんじゃなかったのか?聞くのも汚らわしいと思っていたのだが、聞こえてしまった。

4)有り余る資金をどうするか?
どの世界にもあることなのだが、何年に渡って継続されてきたことが閉塞状態に陥ったとき、今までの社会観や価値観とは真逆の立場が浮上するというのか注目されることがある。その多くが一時の流行で線香花火のように終わるのだが、そのなかから次の時代を先導する理論体系や社会観が生まれてくる。
戦後長きにわたって、資本主義の国々ではと限定しなければならないにしても、世界の政治経済の基本的な理念がケインズ経済学とその延長(厚生経済学)におかれていた。そこでは資本の暴走による景気変動を許容範囲に抑え、厚い中間社会層を中心として安定した社会を目指していた。
一般大衆消費財とその関連製造業における競争力を失ってきたところにベトナム戦争と原油高で、ドルを世界に垂れ流したアメリカが『豊かな社会』を標榜しえなくなっていった。そのままでは経済成長を望めないと考えた資本主義の骨格を形成していた人たちが、厚生経済学を置き換える新しい経済理念を必要としていた。そこに新自由主義と呼ばれる理念が脚光を浴びる素地があった。
その理念に基づいて資本の活動の制約が軽減、消滅して、金融が世界経済を評価し支配する社会が生まれた。生まれたものがグローバル金融社会で、それは国家すら評価し支配するまでになった。信用の過度の拡大とそれに続く信用不安から景気の後退、所得格差の度を超えた拡大、一般大衆の可処分所得の減少による消費(需要)の減退、そこから社会不安。。。

軽薄と叱られそうだが、『共産党宣言』の一節をもじっていえば、「一匹の妖怪が世界中を徘徊している──実体経済をはるかに上回る金融資本という妖怪が」になるかと思う。富裕層への富の集中に信用の拡大がともなって、実体経済の決済に必要な規模を大きく超えたマネーと呼ばれる浮遊資金が生まれた。
浮遊資金は実体経済に投資されずに、実体経済の制約にとらわれることなく利益を求めて活動する。実業に投下され利潤を上げるかたちで増殖するには浮遊している量が多すぎる。逆に言い方をすれば、有り余る資金はあるが、それを投資する先が足りない。それは伝統的な経済学が前提としているM-C−M‘やC-M-C’という実体経済を経由することなくマネーからマネーへの直接の増殖を求める。当たり前のように思える。
では有り余る、垂れ流しされた基軸通貨の回収などできるのか?銀行の自己資本比率を上げたり、債権や証券−金融機関による信用の創造が大きくなり過ぎないように制限する。。。あれこれ対策?が聞こえてくるが、どれもこれも本質的な問題−有り余る浮遊資金をどうするかということから目を逸らしているようにしか見えない。
まさか基軸通貨のデノミともゆかないだろし、解決案が思いつかないのだろうが、これをどうするのか?これこそが今経済学者の求められている次の社会に向けた新しい経済理論ではないのか?
経済学の高名な先生方、まさか本来のあるべき経済学に見切りをつけて金融なんとかという領域に宗派変えというわけにもゆかないだろう。

5)マルサスじゃあるまいし
数十年や百年も前の経済社会状況を分析して構築され、そのあと多くの経済学者が時代時代に対応するように改版してきた経済理論では今起きていることを分析しきれないのではないか?なかにはゼロ金利が資本主義の終焉を示唆しているとして、経済成長を求めない社会に移行しなければと主張する経済学者もいる。そこにはマルサスに似た臭い、先進国の利己的な、経済学者からは嗅ぎたくない臭いさえしてくる。
先進国では労働生産性を下げるという選択肢(労働時間短縮など)もない訳ではないだろうが、中進国や発展途上国で多くの人々が、上下水道や電力、医療や教育など豊かな生活をもとめて、生産性を向上すべく努力しているところに、資源の枯渇と環境破壊を引き合いにだして、経済発展は間違っていると言えるのだろうか?それでなくても低い生産性をさらに下げるという選択肢などありえるのか?
あるいはファノンが主張した?先進国から発展途上国への富の移転(返還)など可能性があるものなのか、素人には分からない。その辺りを先生方からお聞きしたい。

歴史上の経済学者が遭遇することなど思いもよらなかった歴史的な変換点に立っていることに、どれほど多くの経済学者が喜びを感じているのか分からない。経済学者としてこれほどの機会に恵まれることはなかなかないと思うのだが。求められているのは歴史的な経済理論を学んで、それを説く人ではなく、歴史から学んで明日の社会を描こうとする人たちだろう。
2016/4/3