西郷さんとハチ公(改版1)

町屋で生まれて育って、子供の足で歩いても五六分の荒川区立第七峡田小学校に入った。校庭の端の大きな壁の向こうは河川敷もない蛇行した隅田川。斜めに引いても五十メートル走がやっとという狭い校庭だった。
水がでるから、辺りの建物はみんな木造二階建て。アパートと零細企業が密集していて、ろくな空地もなかった。アパートと町工場の間の露地が遊び場だった。
母方の地元が浅草だったこともあってか、連れて行ってもらったのは、もっぱら「花やしき」だった。なんでそんなに「花やしき」?後で考えたら、孫をだしにして祖父が場外馬券に行きたかったからだとしか思えない。東京の下町の家系だからだろう、上野や御徒町には親戚が何件かあった。何があったのか知らないが、今なら「湯島駅」の真上の親戚にはよく連れてゆかれた。
家に置いておくわけにもゆかないから連れてゆかれただけで、親戚には遊び相手もいないし、大人の話には入れないしで、退屈だった。そんな孫を思ってからか、動物園にはめったに連れて行ってもらえなかったが、祖母に引かれてお山と不忍池の周りをよく散歩した。

当時、西郷さんの銅像に向かって上がってゆく階段では傷痍軍人の姿の人たちがアコーディオンを弾いていた。その人たちを右手に見ながら西郷さんの左手にでるのだが、いつ行っても、人だかりが絶えなかった。
いつのまにやら上野も御徒町もきれいになった。不忍口からアメ横に向かっては昔ながらの人だかりだが、西郷さんへの階段も上りきったところも閑散としている。ポツポツと人がいるだけでかつての賑わいはない。浴衣姿の西郷さんが愛犬を連れて、一人寂しくハトの止り場になっている。
西郷さんには祖母と歩いた思い出しかない。歳いって、西郷さんが何をした人だったのかを知っても、思い出としての西郷さんのままで、政治的な評価にはならない。銅像の多くが軍服姿で威風堂々しているのに、浴衣に愛犬というのもあってかもしれない。

外見からだが、ヨーロッパかアメリカから来た人たちや中近東の人たちにまじって、言葉からして中国からの人たちが西郷さんの前に並んで記念写真を撮っている。喧騒を避けてお山に上がってきたら、浴衣で犬連れた銅像がポツンと立っている。なんだか分からないが、人だかりもなく、記念写真の一枚もとっておこうかという感じに見える。西郷さん、銅像からは軍国日本の創始者だったようには見えない。フツーの人のフツーの生活からは遠く離れた、誰も気にしない存在になったのだろう。

生まれも育ちも東京の北東か西にしか縁がなかったが、震災のときは浦安に住んでいた。被害が大きく、横浜の港北ニュータウンに引っ越した。出てゆく先のターミナル駅が渋谷になった。業界が違うのだろう、仕事で渋谷に出ることはなかった。引っ越して五年になるが、未だに渋谷は不案内のままでいる。

人との待ち合わせをハチ公前としたのはいいが、人だかりでハチ公が見えなかった。近くの交番に行って、ハチ公はどこですかと訊いた。おのぼりさんのようで恥ずかしかった。西郷さんと違ってハチ公は控えめな高さにあるから、そこにハチ公があるはずと思って見なければ、人だかりに隠れて見つからない。忠犬を謳おうとすれば、人を見下ろす高さには置けない。何度か見ているうちに、これが忠犬かと、何か戦時中のプロパガンダの象徴のような気がしてきた。犬ですら主人に対する忠義を忘れないのに、人に至っては。。。そう思いだすと、見たくもないしで、待ち合わせはモヤイ像の方にした。

ハチ公前に集まっている人たちは、そんなこと考えもしないのだろう。いつ行っても、若い人たちが記念写真を撮っている。相手は犬、西郷さん以上にただの銅像で、若い人がワイワイやっている。渋谷のホットスポットぐらいにしか思っていないのだろう。ハチ公と飼い主がどうであれ、軍国日本が国民の思想統制をするのに便利な道具だったなどと、想像もつかない。

嫌隣国教育を受けている(はずの)中国の若い人たちも、ハチ公の社会的な背景など何も知らないのだろう、ニコニコしながら記念写真を撮っている。社会の支配層がどう思おうが、人たちにどう思わせようとしようが、ノンポリで無定見。その時その時を楽しむ生活。。。平和な社会とはこういうものなのかと、落ち着かない安心感がある。その知識のなさから生まれる無定見が、本当に平和な社会を作ってゆく力になり得るのか、笑顔が笑顔だけに不安になる。
政治的に無定見だからこそ、ちょっとしたきっかけで困った定見に走り易いだろうし、なった定見が平和とは相いれないこともあるだろう。定見がないからこそ、社会の支配層には都合のいい人たちで、ハチ公は今でも立派に役目を果たしているのかもしれない。
2016/8/14