利権と理念、選挙と政治(改版1)

参院選はおおかた予想していた通りの結果になった。結果だけを見れば、改憲派が護憲派に勝ったということなのだが、改憲か護憲かがどれほど投票に影響を与えたかを考えると、一概にそうとも言えない気がする。有権者は、いつものように、憲法がどのというという理念より、日常生活に直結した利益誘導−利権を選んだということでしかないのではないか。

どのような社会的な立場にいようが、どのように主張が理想や理念で飾られていようが、政治とはつきつめて言えば、よくて富の分配、ありていに言えば利権でしかない。誰かが得れば、誰かが割を食う。企業や富裕層の利権もあれば、議員や官僚の利権もあるだろうし、宗教団体の利権もあれば市井のフツーの人たちの利権もある。フツーに生活からは見えない裏稼業の利権もないわけないだろうし、見ようによっては、生活に困っている人たちの生存を保証する主張も利権でしかない。

多少なりともまっとうな社会をと思って、きれいな利権と汚い利権に分類しようとしても、そう簡単にはゆかない。何がきれいで何が汚いというのは、極端な場合でもなければ、立場の違いでしかない。立場の違いでかたづけるなというのなら、考え方の違いという便利な言い方でもいい。試しに、巷の常識にてらして両者の線引きをしてみればいい。これはきれい、これは汚いと判別しきれないだけでなく、人によってどっちに区分けするかも違ってくる。注意してほしいが、ここでは遵法か否かは判断基準にならない。法は利権を正当化するために、正当化が言い過ぎというのなら、違法でなくすために作られる。その法を作るための議員選びを選挙と呼んでいる。

原発賛成も反対も、道路や鉄道網、上下水道などのインフラ整備や環境問題も、保育園から教育問題も社会福祉も、なにもかもが有権者の日々の生活に直結する。税金をどこから取って、どこからは取らないか、租税回避の抜け道を用意しておくか、そしてどこに何に使うかがそのまま庶民の生活になんらかの影響をおよぼす。それらが、言葉として認めたくない人もいるだろうが、全て利権で、何時の時代にも、どんな選挙でも市井の大勢の人びとは自分(たち)の利権を求めてか、誘導されて投票してきた。

行政(官僚)と議員連中が利権を采配しているが、その後ろには財界や業界や富裕層というのか、経済力を背景にした政治的な力をもった人たちが控えている。実感があるなしに関わらず人びとの日常生活はその采配の影響下にある。実感と言われても、多くの利権がきれいにラッピングされていているから、ピンとこないことも多い。そんなケースを一つ考えてみる。人当たり年百円、月々十円に満たない負荷(税金や保険料)を新たに背負わされても、追加の負荷を実感できる人はいない。それが一億人になれば、年百億円、二三の利権団体で分け合える立派な利権になる。これとは逆の、庶民には実感の湧かない利権の分配、たとえば年百円の助成金もあるだろう。いずれの場合でも、采配者としての行政(官僚)と族議員連中とその取り巻きは采配料(彼らの利権)をきちんと懐にいれている。

フツーの人たちは、自分の目と耳で実感しえる、しばしし得ると思っている範囲のことなら、なんらかの判断ができるし、しようともするが、理論や理屈で説明される、間接的にしか自分の日常生活に関係しないことにはたいして興味もないし、理解しようともしない。
苦しい財政予算のなかで、何かを増やせば、何かを我慢せざるをえない。防衛予算を増やせば、その他の予算が割を食う。我慢しなければならないその他の予算とは何か?安定保守政権のもと、財界主流派を形成する重厚長大産業の利権を削減するような政策はあり得ないから、削減されるのは、広い意味での庶民向けの社会福祉予算だろう。

参院選の争点になっていたと思っている憲法改正が、庶民の日常生活にどのような影響があるのか、庶民がどのように考えているのか、感じているのかを想像してみればいい。ほとんどの人は直の不利益を想像できない。
Q:自衛隊が海外に派遣される?
A:既に何度も派遣されているではないか。
Q:派遣費用のせいで割を食う予算は?
A:そんなこと考えたこともない。
Q:紛争に巻き込まれる?
A:政府もそこまで危険なことをするはずがない。したとしても、自衛隊の人たちのことで、こっちにゃ関係ない。
フツーの日常生活からしか考えない人たちは、日常生活に直結した自分たちの利権に関心がゆく。その人たちにとってみれば、憲法改正はどうなったところで、日常生活に、少なくとも想像できる時間の流れのなかでは、何の影響もない(と思っている)。
一方、政権与党の言っていることを真に受ける限りでは、巷の産業界向けや庶民向けの政策から即日常生活の利権が目に浮かぶ。従来からの景気刺激策も続けるだろうし、憲法がどうであれ、防衛産業を核にしてハイテク産業が振興されれば景気もよくなるだろう。そうすれば、給料も上がるだろうし、もっと割のいい仕事にありつけるかもしれない。理念から社会を見ようとする一部の人たちが言うように戦争になるようには見えない。理念として護憲や平和はいいが、そんなもので景気がよくなるわけでもなし、生活が楽になる訳でもないじゃないか。

比喩として使うのもどうかと思うのだが、言ってみれば天動説と地動説を思えば分かりやすいかもしれない。人びとの毎日は、お天道様が出て沈んでという、直接実感できる天動説で動いている。そこに地動説を持ちこんでも、理論としてならいざしらず、日常生活には無理がある。
実感できる、あるいは実感できると思える、聞こえる利権に人はなびく。そんなこと、今回が初めてのことでもなし、戦後長きにわたって、革新系といわれてきた政治団体が同じように考えて、同じように行動して、同じように選挙にがっかりして。巷の言い方で言わせて頂ければ、経験から学習しない人たちの典型に見える。知識レベルに問題がある訳でもないのに、なぜ半世紀以上の経験から学ばないのか?まさか、学ぶ必要がないと思っている訳でもないだろう。
似たような考えや思いの人たちが集まって、話して、同じような結論になって、同じように行動してが原因だろう。その人たちの社会集団では、その人たちの思考や判断が社会常識なのだろうが、その社会集団の中から社会を見ている限り、理念や理想で一般大衆が判断している訳ではないことに気が付く機会を、個人としてはいざしらず、集団として失ってしまっているように見える。

理念や理想のない社会などあり得ないのだが、選挙では理念や理想より、その日の利権が人々を誘導する。選挙の結果から政治が始まるのであれば、好き嫌いではなく、政治とは利権でしかないと割り切った、割り切ったという言い方がイヤなら、現実にそくしてでいい。そこから考えなきゃならないだろう。それが現実ということで、好き嫌いの話ではなければ、理念や理想の話でもない。選挙で勝てなければ、理念や理想を掲げた政治も始まらない。理念や理想に囚われて、始めるという目的を達成するための考えがないのではないか。学者先生や研究者でもあるまいし、理念や理想に埋もれて、それでも政党なのか政治団体なのか、という素朴な疑問すら湧いてくる。
2017/7/31