横断歩道で赤信号、渡る一歩から?(改版1)

外的な状況も色々あるし、個人的な状況もさまざま、渡ってもいいじゃないかという人もいれば、しばし道徳観まで持ち出して、信号を無視する人を叱責する人もいる。
叱られかねないのを承知で、個人的には、社会に対する責任というのか、社会における自分のありようまで絡んで、状況次第では渡ってもいいじゃなかと思っている。何を大げさなとこといわれるだろうが、こんな日常の些細なことが、些細だからこそ自分で理解して、自分で責任をとってという自分のありようを培ってゆく始まりのような気がする。

話をすすめる前に、渡ろうとするか、しないかの外的な条件をざっとながめておく。渡ろうと思う条件の第一は、事故につながる可能性もなく、自動車やバイクや自転車など他の交通にはなんの影響もおよばさないこと。第二にお巡りさんがいないこと。自分のありようなどと大げさなことを言っておきながら、お巡りさんがいるときと、いないときで渡るか渡らないかが違うのはおかしいじゃないかと、失笑を買いそうな気がする。言い訳がましいが、これは、信号を無視することによって、自分も含めた誰にも面倒なことが起きないという第一の条件の一部とする。無視したところで、誰も困りはしないにしても、お巡りさんの立場では、無視を無視はできないだろう。余計なことはしたくない人のいいお巡りさんでも、目の前で信号を無視されれば、立場上ひとこと言わなければならなくなる。こっちも聞いてもしょうもない話を聞かなければならなくなる。

渡りたいと思う気持ちを抑える外的要因に、一つ、ちょっと微妙なのがある。子供の目の前での信号無視は教育上よくないのではないかという常識のようなものがある。大人が平然と信号無視しているのを見れば、子供も真似するだろうし、まだ小さくて、車が来ないことを確認する能力が足りないと、真似が事故につながるのではないかと心配になる。ここまでは抑制が働いて、渡らない方を選択するにしても、保護者と一緒か子供だけの二通りのケースがあって、渡るか渡らないかの判断に違いがある。
保護者が一緒であれば、信号無視しても、保護者がしてはいけない悪い例として幼児教育に使えるだろうと、言い訳を付けて渡ってしまう。子供だけの場合は渡らない。これが三番目の条件になる。

信号無視をしたところで、上記の条件に沿っていれば、誰にも迷惑をかける訳でもなし、何の問題もないと思うのだが、Webでみると、そうは思わない人が結構多そうだ。歩行者のマナーがどうのから始まって、歩行者の信号無視は二万円以下の罰金という法律まで持ち出して、もっとしっかり取り締まるべきという意見が、これでもかというくらい載っている。どれもこれもが、おっしゃる通りの正論でなんとも反論のしようがない。

反論しようがないし、気がひけるのだが、渡りたい気持ちがあるからということでもなく、ことはそう簡単じゃないんじゃないかと思っている。Webの多くの主張が、昔聞いたシンガポールを美化した話にどこか似ているような気がする。
曰く、チューインガムを道で吐き出す人がなくならないから、シンガポールではチューインガムを禁止してしまった。何かゴミでも捨てようものなら、かなりの罰金を覚悟しなればならない。全てが計画に基づいてというのか、しっかりしているというのか、真っ直ぐというのか、犬までが歩道を真っ直ぐ歩いているという冗談があった。確かにきれい街だし、華僑の街にありがちなゴミゴミしたところがない。
いい街だと思うのだが、犬までが真っ直ぐは勘弁してほしい。誰もフツーにちょっとこっちへ、あっちへと歩いて、とやかく言われるような街に住みたいと思わない。犬までが真っ直ぐ、あるわけのない管理社会に対する軽い笑い飛ばしだろう。

たかが横断歩道の交通信号、生死の境目のような状態でもないかりぎ、交通信号に従うのがルールだから、マナーだからと愚直に信号を信頼しきっていいものなかが気になる。何にしても、どこかの誰かが決めたルールを誰もが守っていれば、大過なく、最適な社会生活を誰もがおくれるという、盲目的な追従の習慣というのか、自分では判断しない思考を形成するのに役立っているのではないか。

先生がそういったから、先輩がそう言ったから、上司がそういったから、市役所や区役所で聞いたら、テレビでそういっていたから、……どこでもここでも、それなりの人たちがそういったからと、疑うこともなくそう信じて、そう行動してだけならまだしも、そう信じない、そう行動しない人とをルール違反だ、モラルがたりない……。

解決しなければならない問題のない社会など、いつの時代にもどこにもない。ましてや、しばし問題のゆえにいい立場にいる人たちもいる。それを法律上は問題にならないように法律がつくられることを考えると、たかが交通信号といえども、何において絶対善や真と言い切れるのか?法律も決まりも、それを作った人たち以上にそれを状況に応じて使い切る、しばし使わない知能の方が大事なのではないか。

ルールだらかと従うことを良しとする、それを社会規範として他人に強制するところから自律的な思考の発芽を抑制する社会が出来上がる。自分で見聞きして、自分で評価して判断して、この社会人としての責任と権利を一時的にせよ、毎日習慣のように横に置いて、ルールだからと無批判に受け入れて信じるところから、あるべき社会など望むべくもないと思うのだが。
たかが横断歩道の信号なのだが、絶対善や絶対真の敷衍に一役買っているのではないかと思うと、無視するのも人としてのありようのような気がしてくる。信号無視ではなく、信号は参考にするまでに抑えて、渡ろうが渡るまいが、どっちにしてもどうでもいい日常の些細な事に過ぎない。でも、その日常の些細なことから独立自尊の精神が涵養されて、住みやすい社会を考える習慣が育つのではないか。少なくともルールだがら、規則だからと盲目的に従うことから民主的な社会が生まれてくるとは思えない。
赤信号、どうするか?大げさに言えば、そこからの一歩が次の社会への第一歩になる。

[パリでは渡らなければならない]
フランスは、祖父母まで遡れば四人に一人が外国から渡ってきた移民社会。移民同化政策の失敗と増え続ける難民もあって、パリの一部は先進国というより発展途上国の様相を呈してきた。昔から国家や行政の命令を不信の目でみる文化もあって、パリに住んでいる人たちは、横断歩道の信号を参考にはしても、従おうとする気がない。車や自転車の流れを見ながら誰もが信号に関係なく横断する。そこで律儀に信号待ちすれば、パリに不案内な「おのぼりさん」であることを公知しているかのようなことになる。発展途上国のようになってしまったパリで「おのぼりさん」はスリやかっぱらいに、いいカモがいますよと示していることになる。ここで規則に従うのを絶対善としている日本人旅行者は格好のカモになる。
「赤信号で渡ったら危ないじゃないか」という教科書的な判断基準を棄てて、「身の安全のためにも」、郷にいっては郷に従えで、赤信号でも横断しようとしなければならない。発展途上国だけでなく、先進国においても世界ではパリに似たようなところが多い。赤信号でも渡る練習をしておいた方がいいかもしれない。
2016/9/18