社長の自制心と社会の開明度(改版1)

主だったところだけでも、日本の会社二社とアメリカ系三社にヨーロッパ系四社を渡り歩いてきた。業種でいえば、工作機械や産業用制御機器、画像処理にLED照明が主なところになる。
外資の七社には従業員数十万人の巨大コングロマリットもあれば、数百人という中堅どころもあった。業態も違えば、依ってたつ歴史も文化も違う。どこも、それぞれの個性というのか特徴があった。どこにいっても、マーケティングという仕事柄、社長や経営陣と直接話をする機会が多かった。何においても各社各様なのだが、社長や経営陣の自制心という点でみると、アメリカ系とヨーロッパ系に二分できる特徴的な違いがあった。
違いといっても、仕事を通して知り得た表面的な理解でしかない。そこから一般化した話にするのには多少のためらいがある。それでも、あまりに歴然とした特徴だけに、ざっと整理しておくのも無駄ではないだろう。

創業社長の独裁が続いている、あるいは創業家の支配が続いている中堅企業のオーナー社長には公私混同が当たり前になっている。オーナー社長とその側近には、近頃日本語になった感のある「インテグリティ」の微塵もない。仕事で日本に来ているはずなのに、遊びにくる口実としか思えないことも多い。滞在中、私的な関心事にさく時間が目立つ。それを当然の権利だと考えている。ここまではアメリカだから、ヨーロッパだからということでもなく、日本でもどこにでもある話で、驚きはしない。

これがオーナー社長ではなく、企業としてコーポレーションになっている大きな会社の社長や経営陣になると、アメリカ系とヨーロッパ系でここまで違うのかという違いがでてくる。
ヨーロッパ系には、なんのためらいもなく、日本支社の社長に歌舞伎や相撲の升席を用意しろと言ってくるのさえある。和食通が多い。安月給には手のでない料理で、お連れにうんちくを垂れて、野卑な優越感に浸っているのではないかと思うことすらある。鷹揚に振る舞ってはいるが、自腹を切っているわけではない。帰国しての精算が面倒なのか気まずいのだろう。支払は日本支社につけて、それを当たり前と思っている。

十数年お世話になったアメリカの産業用制御機器のメーカーは、専業では世界最大の事業規模を誇る名門企業だった。そこまでの会社の社長となると、お会いするのもそれなりの立場の人たちになる。ある日、軽い昼飯に同席したとき、ちょっと前に中国の企業を何社か訪問された時の話になった。
行く先々で高価な工芸品――陶器や絨毯をプレゼントとして頂戴した。相手の立場もあるし、断れない。ありがたく頂戴してきたが、私物とする訳にもゆかない。いつものようにオークションに出して、現金に換えて慈善団体に寄付した。

アメリカの巨大なコングロマリットの社長や役員となると、ちょっとした出張でもかなりのコストがかかる。泊まるホテルはまだしも、食事はいつもビジネス上の関係のある人との昼食や晩餐で、プライバシーのようなものがあるのかないのか分からなくなる。そこまでゆくと、公私のけじめをつけるのが難しい。それでも万が一、些細な出費でゴシップのようなことになれば、即進退問題に発展しかねない。中には些細な私生活のゴタゴタで消えてゆく人もいる。半公人の立場とでもいうのか、常にマスコミや市井の人たちの目が光っているという緊張感を持ち続けているように見える。

ところが、ヨーロッパ系の会社になると、たとえコーポレーションの規模になっても、それは一般庶民からは隔絶した、貴族のような立場という歴史に培われた?意識なのだろう。巷の目や一般従業員の目など気にすることなく、中堅企業のオーナー社長と似たような役得を当然のこととしているように見える。

何が両者の違いを生むのか?個人の資質だけとは思えない。文化の違いなのだろうが、何がアメリカをその母体としてきたヨーロッパと違う社会にしているのか?重要なのは次の二点だろう。
一つ目は、アメリカには、構造的にお互いにチェックし合う社会でなければならないという考えがある。批判されない権力は必ず腐敗する。これを防ぐためには、人の善意や個人の資質に依拠したものではなく、組織体として相互チェック機能をつくりあげなければならないと考えている。権力が大きければ大きいほど、その権力に怯まないチェック組織を作ってきた。

とはいっても、必ず抜け道を探し出すのが世の常で、これだけでは両者の違いを説明できない。大きな要素は二つ目で、出来る限りの、しばし私生活にまでおよぶ情報開示にある。アメリカはヨーロッパの「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」を反面教師として、貴族社会を否定することから始まった。この理念が日常生活のどこまで行き渡っているかで、その国なり人たちの民度が決まる。
大統領や首相が愛人との間に公然と婚外子をもうけて、あしげく通う。ヨーロッパでは私生活には関与しないとされても、アメリカでは許されない。

貴族社会の延長線に留まった階層社会のヨーロッパと、それを反面教師として市井の人びとによってつくられたアメリカの違い。それがそのまま社長や経営陣の自覚の違いとなって露われているように見える。
2016/10/2