食の擬きから(改版1)

若いとき、先輩に神田にある日本蕎麦の名店に連れて行かれたことがある。有名私立大学の経済学部出身で、職工さんとは違う世界の人という雰囲気を振りまいて、女性陣には人気の人だった。女の子二人と先輩でゆくはずだったのに、どういう訳か誘われて、おまけのように付いて行った。三人で話が弾んでいる横で一人外れていた。興味というのか関心というのか、同じ人間でも、見ている景色がこうも違うかと思い知らされた。この人たちがフツーの人たちなのだろうなという思いがあるから、あるのは疎外感だけで、のこのこついて来たことを悔やんだ。

出てきたざる蕎麦、いつも見ているのとは違う。色浅黒く、しなやかな中にもなんか突っ張っているように見えた。一口食べて、これが蕎麦なんだろうなという歯ごたえもあるし、のど越しもある。でもそれが美味いのかといえば、そうなのかもしれないとしか言えない。言えるのは、いつも食べている立ち食いソバとは違うというだけだった。美味いかどうかより、食べたことがなかったからだろう、すっとは受け入れにくい違和感が先に立つ。

女の子二人して、ちょっとオーバーじゃないかという仕草のついた「美味しい」という言葉に、先輩のそうだろうという、したり顔。そこにどこかで聞いてきた「うんちく」までのたまわれた。三人の同意を迫る口ぶりに、大根役者のセリフのように「美味し」と言わざるを得なかった。確かに美味しいのだろうが、いつも食べている立ち食いソバの「天玉ソバ」だって十分美味しいし、値段を考えれば、そっちの方がよほどいい、と内心思っているのだが、そんなことを口にはだせない。

誰がどう食べようと不味くてというのがあるように、何が美味しいかにも何らかの本筋のようなものがあると思う。でも、そこそこのレベルであれば、あとは人それぞれの嗜好次第だろう。と思いながらも、その嗜好が育った環境によって培われた部分も多いだろうから、俗な引け目のようなものもあって、一概に人それぞれと言い切るのもはばかれる。はばかれるのを、見下されるのを承知で、開き直ってその席で、「美味いけど、立ち食いソバも捨てたもんじゃない」という勇気はなかった。

あれから三十余年、仕事の関係で赤坂や新橋の日本蕎麦屋を居酒屋として使っていた。締めは決まって板そばだった。その板そば、神田の名店の蕎麦とは違う。そこまで偉そうに蕎麦という主張というのか存在感はない。まずもって、受け入れるのに違和感がない。それでも、それはそば粉の勝ったそばで、立ちソバのソバとは違うし、たまに家で食べるスーパーマーケットで買ってくるソバとも違う。

そばが好きで、そばだと思って食べてはいるが、スーパーマーケットにならんでいるソバの多くが、そば粉より小麦粉の方が多い。包装紙に書かれている原材料名をみて、美味いと思っているそばの主原料が小麦粉であることに気付く。なんのことはない、そば粉の入ったうどんで、そばのような体裁をしているものをそばだと思って食べて、美味しいと思っている。思っているというより、それがそばだと、大げさに言えば信じさせられてきたというのか、育ったということかと思うと、騙され続けてきたという気がしないでもない。ここで騙されてきたと言い切れないところが情けない。

もし、そば粉の入ったそば擬きのうどんの商品名をそばではなく、そば風味のうどんとしたらどうなるんだろうと考えてしまう。そばと言われて、そばだと思って食べた方が、正直に?そば風味のうどんと言われて食べるより、美味しいと思うだろう。そうは言うものの、主原料が小麦なのに、それをそばと言うのは詐欺のような気がする。詐欺のような気がするのだけれども、それで美味しいそばと思って食べてる自分のことを思うと、その詐欺、まんざら悪いことでもないのかもしれないじゃないかと、歯切れが悪くなる。

日本の食品業界の技術に感心すべきなのか、飼い慣らされて育った日本人ということでしかないのか、いずれにしても、擬きを本物と思って食べて、それで美味しいと感じるのがフツーになっている。和食が世界文化遺産にまで登録された日本の食。贅の極みを尽くした食もあれば、擬きに溢れた庶民の日常生活の食もある。
ここでおそらく、どっちが本物かという議論があると思う。あってしかるべきだし、世界文化遺産にまでして、しなきゃおかしいだろう。ただ、いくら議論したところで、庶民が一生食べることもないどころか、みることもない匠の和食を本物の日本食として、日常的に食べているものは本物じゃないとう結論はありえないだろう。擬きだらけの日常生活の食べ物も、みんなが食べてる本物の日本食。誰が否定できる。

詐欺のようなそばを食べて育ったから、そういう社会層の出だからとうことでしかないのかと思うと、なんともやりきれないものがあるが、人の味覚とは、そういうもんだと納得してしまえば、騙されているという気持ちを拭いきれないながらも、それはそれでいいのかと思ってしまう。味覚も志向や嗜好と同じように人さまざま、何が本物かと問うたところでたいした意味があるとも思えない。美味い美味くないも、これでいいと思えばそれでいい。人それぞれ。人それぞれのところに押し入って、これが本物だという自由はあってもいいが、納得するか、納得した顔をするかも、そうですかねって軽くいなす自由もある。いなす自由を失うことだけはないようにしようと思っている。

どこにもここにも食の擬きが溢れている。さすがに問題になったのか乳脂肪が入っていないのには、クリームという名称を使わなくなった。かに棒はアメリカでは訴えられて、Artificial crab meat(直訳すれば、人工かに肉)と言うようになったが、日本ではかに棒のままで通っている。知り合いのベルギー人がきたときに、日本の凝ったつくりのチョコレートを食べさせたら、これはチョコレートじゃないと言われた。チョコ何とかという名前になっているのに、チョコレートが全く入っていないものさえある。ここまでくると、残念ながら、食の擬きが食の擬きで終わらない。

「チョコxxx」と言ってるだけで、「チョコレート」とは言ってないじゃないかというだろうが、それは擬きの食が日本語までだらしのないものにしてしまった好例だろう。食も言葉も文化の中心にある。一方が荒れれば、もう一方も引きずられる。言葉がしっかりしなければ人の知的レベルまでが影響される。
そう思うと、擬きを本物と思い込んで美味いといっている自分のありよう、擬きで納得している自分までが擬き?そんなことありはしないと思いながらも、食に限らず、ジャーナリズム擬きに政治家擬き、大学擬き。。。擬きなしには生活がないのも確かで、擬きなしには、自分がありえないのかと心配になる。
2016/7/3