節約は経済犯罪−ドイツの問題(改版1)

「節約は美徳」と言われると、どうもその道徳的な絶対善に近い響きのせいで反論しがたい。それでも多少は経済学をかじったからなのか「そうです」と言い切れずに、「そうではない」と言いたくなる。
可処分所得が減り気味のなかで、富裕層ならいざしらず、巷の多くの家庭では、出費を抑えてが美徳というより、しなくてはならない生活になって久しい。いまさら、節約だ倹約だと言われなくても、分かってると言いたくなる。「そうではない」と言いながら、どうも落ち着かない。落ち着かないながらも、「そうではない」が間違っているとは思えない。そう思いながらも、かじった程度の経済学の理解だから、間違っているのかもしれないと心配になる。

個々の家庭では当たり前として奨励される「節約」を社会全体に推し進めたらどうなるか?誰かの収入は他の誰かの支出に他ならない。誰かが節約して支出を減らせば、他の誰かの収入が減る。誰しも収入が減れば支出を減らす。支出を減らせば、他の誰かの収入が減る。この連鎖が続けば、縮小均衡に至るまで経済規模が縮小する。こんなあまりに当たり前のことを言えば、それこそ何をいまさらと冷笑される方々の顔が目に浮かぶ。ところが欧州債務危機の話になったとたん、なぜこの当たり前とも思える視点が、あたかも雲散霧消したかのような議論になるのか分からない。どこかで何か勘違いでもしているのかと心配になる。

ドイツには気候風土と歴史に培われた思考の慣性とでもいうのか、消費を控えて生産力の向上を求め続ける文化がある。立派な生活態度だと思う。ドイツの人々の日常生活をみれば、勤勉、実直、質素な生活態度、。。。そこから生まれる強固な製造業と堅調な経済、国際競争力に何から何まで賞賛に値する(ように見える)。南欧の社会や経済体制の不備と対比すればするほど、ドイツの優等生ぶりが目につく。そこから、ドイツがあるべき手本で、ギリシャをはじめとする債務問題を抱えた南欧の国々の政治経済体制から人びとの日常生活までが問題だという話になる。どこにも間違いのない話に聞こえるが、南欧の人たちもドイツの人たちのように支出を抑えた質素な生活を求めたら、ドイツの優位性がなくなるだけでなく、欧州の経済全体が縮小する。この見方、間違っているようにはみえない。

誰かの支出が他の誰かの収入というのは家庭だけでなく、国家のレベルでも言えることで、ドイツの黒字は他の国々の赤字の裏返しでしかない。赤字の国々をユーロの単一市場に抱え込むことで、ドイツがいくら黒字を重ねてもユーロがドルに対しても円に対して高くなりすぎることなく抑えられる。Webの記事によれば、ドイツの債権市場に資金が流入することによって、ドイツの金利が下がって、それだけでも数千億ユーロの利益がでているという。ギリシャの債務問題のゴタゴタが長引けば長引くほど、ユーロを担保にしたドイツの独り勝ちが続く。

南欧諸国が社会経済体系から労働や日常生活までをドイツ式にしようとするのは、欧州全体の経済を縮小しようということに他ならない。検討する価値があるとは思えない。しなければならないのは、ドイツが他のヨーロッパの国々のやり方に多少なりとも合わせることだろう。
このまま倹約のドイツが他のヨーロッパの国々の犠牲の上に繁栄し続けることができると思うのは、節約が文化として染み付いてしまっているドイツ人と頭の乱視を患っている一部の政治家と、家庭レベルの節約をそのまま国家レベルの経済に持ちこんでしまう道徳観念の呪縛から逃れられないでいる人たちではないのか、分からない。

確かにギリシャをはじめとする南欧諸国のだらしなさはある。それが問題になっている。問題を見ている限りそう見えるが、問題の本質は、本質が言い過ぎであれば、多くがと言い換えてもいい、ドイツにある。見れば分かる現象を問題としているだけでは、見える現象に引きずられて、問題を引き起こしている根本的な原因を見損なって、解決の糸口は見つからない。

<普段着のドイツ>
ドイツ人と結婚され、ドイツ在住の長い日本人女性(川口マーン恵美さん)が書いた『サービスできないドイツ人、主張できない日本人』は一読の価値がある。フツーの人の日常生活を通してみた素のドイツが垣間見える。そこにユーロの債務危機−ドイツの問題の根源が描かれている。
ドイツへは、たかだか数週間の出張で行ったことがあるだけで、住んだことはない。ちょっと滞在したぐらいで、ドイツの人たちの日常生活までは分からない。それでも滞在中毎日のように感じる違和感から考えることが多かった。川口さんの本を読んで、感じてきたことが特異なことではなかったこと、こっちの理解が何かのバイアスによるものではないことを知って、こういうのも変なのだが、ほっとした。
2016/6/5