舛添−襟を正せるか?(改版1)

東京都知事舛添の公費の濫用には目にあまるものがある、と多分ほとんどの人が思っている。市井のフツーの人たちの感覚では、ちょっと度が過ぎるをはるかにこえている。そりゃないだろうというのが毎日のように出てくる。あまりにぞろぞろ出てくるから、報道されたのは、氷山の一角にすぎないだろうと誰もが思う。ここまで金に汚いと、それこそ「口添え」の舛添よろしく、心づけ次第で便宜もはかってきたのではと思われてもしかたがない。
可処分所得の低下から節約した生活をしている人たちにすれば、金がないわけでもないのに、なんでそこまで公費を、そんな支払くらい自費で賄えと怒鳴りたくなる。
特別清貧であれなどという気もないし、ホセ・ムヒカを見習えなんてこという気もない。ただ、これほどまでに卑しいと、遵法か、常識かなどということではなく、人としてのありよう問題になる。舛添個人の私的な問題で収まるわけでもなし、卑しい首長を仰いで、多くの都(国)民が恥かしい思いをしていると思う。舛添に投票しなかった人たちはまだしも、投票した人たちは、いったいどんな気持ちでいるのだろう。

ただ、ちょっと後ろに下がってみると、舛添の陰のようなものが広く長く続いているような気がする。舛添の卑しさに憤慨するのはいいが、ほとんどと言っていいほどの人たちが、舛添と似たり寄ったりのことを、多かれ少なかれ、日々当たり前のように繰り返している。
典型の一つが、それなりに成功している企業の創業社長やその取り巻きだろう。その人たちの周りに行き過ぎをたしなめる人がいなければ、舛添をはるかに超える濫用が日常茶飯事になっていることもある。安宅産業も西武鉄道もそうだったし、大王製紙の前会長 井川意高がカジノで会社の金を散財したのは、まだ記憶に新しい。
そのような人たちにすれば、政治家が金に汚なければ汚いほど取り入りやすいだろう。金さえ握らせればどうにでもなる。これほど単純な相手はない。舛添はへまをしたけど、変に清廉潔白な人が出てきちゃ困ると思っている人もいるだろう。

民間企業で業務に必須ではない出費で何らかのいい思いをしたことのない人は希だろう。会食や研修、会議費や交際費などの名目で、あるいは、なんとか関係費などという名目もあるかもしれない。舛添ほどおおっぴらに、散財するがごときの出費ではないにして、日本中どの会社でも、どこの組織でも多かれ少なかれ、公費の濫用、濫用が言い過ぎであれば、ただの支出でもいいが、ないところはない。
たとえ自分の裁量で使えるような立場でないとしても、使える人にお付き合いか侍ることで、公費乱用のトリクルダウンの下流に身を置いている人は数えようがないほど多い。中にはエライさんに取り入ってお裾分けを頂戴して、エライさんが鷹揚ないい人だと勘違いするのもいれば、自分も早く公費を散財できるエライさんになりたいと頑張る痴れ者までいる。それが立身出世だと、それが勝ち組だと思っている取り巻きには事欠かない。

舛添にしてみれば、なんでオレだけがという気持ちもあるんじゃないかと思う。権力もあれば政治的な影響力もある。そこに公費の流用のような雰囲気があれば、似たような金に汚いのが集まってくる。集まってくる連中の誰も彼もが公費の濫用をしているじゃないか。ああだのこうだのうるさい奴らだって、多かれ少なかれトリクルダウンの下流にいて、美味しい思いをしているじゃないか。

舛添も馬鹿じゃなし、そんなことを口外することはないだろうが、もし、そう思っていたとしたら、それでもお前の公費濫用は法的にどうのと言う以上に、都知事としての品格の問題なんだ、辞任しろと正面だって言えるものなのか?それこそ、自分のことを棚に上げて、人の足をすくうような卑しいまねをするなと言い返されたら、なんと言うのだろう。オレがやってるのは、高々年に十万円台、百万円台の話で、お前のようなひどいことはしていないとでも言うのだろうか。

規模も違えば、避けきれない事情もあるだろう。それでもしていることは、舛添とたいして変わらない。似たようなことをしておいて、正面きって舛添の公費濫用を非難する資格がどこまであるのか?と疑問を持つ、あるいは自責の念を感じる人がどれほどいるのだろう。

「人の噂も七十五日」、そのうち七十五日のカウントダウンが始まるかもしれないが、その前に卑しい都知事がオリンピックの引き継ぎにリオデジャネイロに出向くつもりでいるらしい。汚職大国に卑しい都知事、お似合いかもしれない。それとも、多少は襟を正して、卑しいのを一つ放り出すのか?都民の良識が問われているような気がしてならない。
2016/6/5