高/低文脈文化の狭間で(改版1)

川口マーン恵美さんの著書『サービスできないドイツ人、主張できない日本人』が興味深い。ドイツ人と結婚され、ドイツ在住が長い川口さんが、日常生活を通してみた素のドイツをエピソードも交えながら語っている。そこに、娘さんが、お母さんである川口さんを評して、日本語で話てるお母さんはやさしいのに、ドイツ語で話すお母さんは怖いとうくだりがあった。
日本語と同じとまでゆかないにしても、ドイツ語でも日本語のときと似たように考え、話せるのに、日本語で話しをするときのようにはならない。これがドイツ語だからなのか、それともドイツの日常生活だからなのか、もし日本に帰ってきてドイツ語だったら、どうなんだろうと想像してしまう。
川口さんにお訊きした訳でもない。ドイツへは出張でなんどか行っただけで住んだこともない。海外生活はアメリカでのとるに足りない体験しかない。同じ条件や経験などありっこないのだし、ない物ねだりをしてもしょうがない。ドイツとアメリカ、違いもあるが、海外という意味では共通点もあるだろう。限られた知識と理解からだが、何が違いを生んでいるのか考えてみた。

ドイツ語と英語の違いはあるが、個人的な経験から、起きていることも、起こしている原因も根っこのところでは似たようなものだと思う。そこでは、二つの要素がしばし別々に、ときには相乗効果起こして、日本語ではそうそう起きないことまでが日常的に起きる。
まず、日本語とドイツ語や英語では、文化の基盤としての言語とその使い方に大きな違いがある。日本語は婉曲的な言い回しというのか、ほのめかすような言い方を、聞く側が共通の文化基盤に基づいて察することを前提としている。一方ドイツ語や英語では、直截な言い方が多く、文化的にも、ほのめかした言い方では相手に意思を伝えらえないことが多い。どちらがいいの悪いのでもなければ、どちらが文化的進んでいるかという話でもない。言語と文化、それを作り上げてきた歴史の違いでしかない。

この両極端ともいっていい言語表現の違いを誰か整理ぐらいしているだろうとWebで調べてみたら、分かりやすい説明がいくつもあった。日本語のように言外の意を含んで、それを汲んで理解する文化を、英語ではHigh-context culture(高文脈文化)と呼んでいる。ドイツ語や英語のように直截な表現によって意思の疎通を図る文化をLow-context culture(低文脈文化)としている。本題からそれるが、高文脈文化と低文脈文化は、あまりに直截というのか無骨な翻訳で、ちょっとがっかりした。このような領域では、高文脈文化である日本文化(語)も活かしようがないのかもしれない。

「高・低文脈文化」と入力して検索すれば、ウィキペディアをはじめとして、分かりやすい説明がいくつも出てくる。
ウィキペディアでは、高文脈文化の極端な言語として日本語、低文脈文化の極端な言語としてはドイツ語を挙げている。他のサイトでは、日本に続く高文脈文化としてアラブや南欧、ドイツ以上にスイスを最も極端な低文脈文化とし、次にドイツ、そしてスカンジナビアとアメリカをあげている。

スイスには四つの共通語がある。そのうち二つはフランス語とイタリア語。フランスもイタリアも南欧で高文脈文化圏ではないのか。であれば、スイスを低文脈文化とするのはおかしいのではないかという(素人の?)疑問がでてくる。ところが、四つも共通語があって、なおかつ民族的にも違うと、どの言語を使用するにも、直截に意思を明らかにしないと、相手に伝わらない可能性がある。言語は高文脈文化の言語でも、使い方というのか話し方は低文脈文化もありということなのだろう。
アメリカのような多民族、多文化の移民社会では、さまざまな価値観や社会観をもった人たちが、それぞれの常識の基に意思の疎通をはからなければならない。そこでは、ほのめかすような表現では誤解を招く。使う言語がどうであれ、必然として低文脈文化にならざるを得ないということなのかもしれない。

高低文脈文化の分かりやすい例を下記にあげる。日本語と英語の比較でご容赦頂きたい。不勉強で、外国語は英語までの知識しか持ち合わせていない。

特に親しい間柄でもなければ、電話をかけて、日本語なら、「xxxさん、いらっしゃいますか?」と尋ねるかたちになる。これが英語では、一般的に「May (Can) I speak to xxx?」になる。
電話がかかってきて、「xxxさん、いらっしゃいますか?」と言われて、高文脈文化なら、xxxさんと話をしたいのだろうと察して、電話を転送する。これが低文脈文化だったら、「xxxさん、いますよ」と答えて終わりの可能性がある。
日本語で、「xxxさん、いますよ」と答えられたら、えっという反応に、気の利かない、おかしなヤツだと思いながら、「xxxさんに転送してもらえますか?」と言うことになるが、いちいちこう言わなければならないことを誰も予期していない。
高低文脈文化の違いが、言ってみれば常識の違いが仕事の仕方や態度に現れて、日本にいれば何でもないことに、よくない方のことで驚くことがある。日本でも似たようなことがないわけではないのだが、海外にでると毎日のように、それはないだろうというのに遭遇してストレスがたまる。こっちは日本のバイアスからは抜けきらないにしても、アメリカ(ドイツ、オランダ・・・)の仕事のありようを一応は理解しているつもりで話をしようとしているのに、相手はアメリカ・・・のやり方しか知らずに、それが世界各国どころか宇宙の果てまで行き渡っているとでも勘違いしているかのような独善的な態度で来られると、いきおい、どうしても言葉がきつくなる。

こっちは正当な権利で、相手にはそれを受けなければならない正当な義務があったとしても、正当な権利を主張しなければ、相手は自分の都合次第で、正当な義務を義務とも思わない。主張してこない権利は権利でなくなるし、その正当な権利に基づいた正当な義務も義務ではなくなる。これが日常あたりまえのこととして起きるところに身をおくと、権利の主張のときだけでなく、日常会話でも、ものをはっきり言うようになる。生まれながらの文化は高文脈文化で、相手の事情を汲み取る人でも、アメリカでの日常生活では直截な英語で、物理的にもしっかり聞き取れるようにと語気も強くなる。ドイツにおいても似たようなものだろう。娘さんのドイツ語のお母さんは怖い、状況が目に浮かぶ。

ここまでなら、ドイツやアメリカでの生活の順応した結果の一つの現れで、まだすむのだが、これが帰国して、日本語のフツーの生活に戻っても、現地での生活に適応した姿勢が抜けきらないことがある。そこは日本、フツーのどこにでもある日常生活、相手も日本人、高文脈文化のなかで、高文脈文化の言語である日本語、それでも口調は、しばしば低文脈文化を引きずって、勘違いや行き違いを避けようとする気持ちも働いて、直截な言い方になる。
外資で働いるとこれがフツーの日常になる。機械じゃあるまいし、右を向いて高文脈文化で日本語、左を向いて低文脈文化で英語と、切り替えられるほど器用じゃない。それをして、アメリカかぶれの日本人という一世代前のカビの生えた言葉で、ありがたくない評価を頂戴する。

多くの人が、空気を読むなどと言いながら、日本の高文脈文化をさらに高文脈化し、彼我の差の尺度にまでして、誇りすら持っている。誇りを持つなと言う気はない。持つべきだと思うが、彼我の区分けに使うものでもないだろう。日本においてすら、地方によって文化に違いがあるし、人によって常識も同じではない。まして、日本から一歩外へ出なければならない時代に、ほのめかしと汲み取ることを前提とした話でことが済むとは思えない。
グローバル化が進む中、誇りに思うのはいいが、若い人たちの「コミュ障」とか「空気を読む」だとか耳にするたびに、空気を読む術に磨きをかけてどうする?という気がする。場がどうのでも好きや嫌いの話でもない。まずは間違いの少ない意思疎通を心がけるべきだろう。空気を読むのはその先のオプションで、それも自然に生まれるものだろうし、それにこだわりすぎれば、自ら広い社会への戸を閉ざすようなことになりかねない。
2016/8/21