子供のいじめ―家庭と社会の責任(改版1)

京都新聞のホームページに、大津市の中学校のいじめ対策の不備を指摘した記事があった。記事は2017年04月08日 09時06分付けで、「いじめ、指摘せず生徒指導、被害止まず 大津の市立中」と題して、学校の指導が不適切だったため、いじめの被害が続いたと書かれていた。
記事が掲載されているサイトのurlは、http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20170408000022

不適切といわれた対策とその対策がとられたわけを読んで、もし記事が事実だったら、教育現場の知的レベルはいかなるものかと心配になる。ちょっと長いが、記事を引用する。

大津市のある市立中で、いじめをした加害生徒に対して、学校側がその行為を『いじめだ』と伝えずに指導した結果、加害が止まらず生徒が被害を受け続けたケースがあることが7日までに分かった。学校側は「いじめ防止対策推進法でいじめの定義が広がり、すべてを『いじめだ』と指導すると、クラス中が加害者だらけになる」と説明する。だが専門家は「いじめに早期対応するため、原則、学校側はいじめ行為だとして指導すべき」と対応に疑問を投げかけている。
学校や被害者側によると、いじめは2014年9月から発生。女子生徒が同級生から「アホ、ぼけ、カス、死ね」と言われたり、にらまれたりする行為が続いた。被害生徒は精神的ストレスから、一時的に視界が狭くなる病気を発症した。学校はいじめ事案と認定し、クラスを分けたり、校内で接触しないよう教諭が監視するなどの対応をとった。
 学校側は、加害生徒にはその行為がいじめだとは教えず、「相手は傷ついている」などと指導した。校長によると、同中ではいじめがあっても加害生徒に対し「いじめだ」とは伝えない方針をとっているという。校長は「いじめにあたる行為は1件1件『相手が傷つき悪いことだ』と丁寧に指導している」とする。
 しかし被害者側によると学校側の対応後もいじめは続き、16年3月には「学校にくんな」などと書かれた差出人不明の手紙が自宅に郵送された。保護者は弁護士に相談。同年5月、加害生徒の保護者宛てに、いじめをやめるよう警告する文書を送った。その後、いじめは止まったという。
 被害者の母親は「いじめは自殺につながる悪いことだと教えながら、いじめだと厳しく指導しない方針があるなんてあぜんとした。結局、学校は加害生徒と向き合わず、何も指導しなかったのと同じだ」と語る。

「クラス中が加害者だらけになる」から「いじめ」と言わずにいたというのがなんとも情けない。加害者だらけなら加害者だらけで、それが実情ということではないのか。そして一人でも二人でも減らしてゆこうとするのが教育者としての責任と考えないのか。教育者がまっとうに考える常識に欠けるか、考える能力を培う教育を受けていないとしか思えない。
みんなが遅刻するから、遅刻を遅刻といわずに、遅刻しないようにどうするかということを考えることも、対策を講じることもなく、登校時間をみんなが遅刻して登校する時間に遅らせれば、遅刻がなくなるというのと似ている。

大津市の公立学校の知的レベルも問題もさることながら、ことは公立学校の問題ではおさまらないのではない。校外でいじめがおきたとしても、学校を媒体とした人間関係から生じた子供のいじめだと、学校と教育関係者の責任が問われる。しかし、これは子供の教育全般の問題であって、学校に限定されたものではない。地域社会にも責任の一端があるし、家庭は学校以上に責任を問われる立場にいることを忘れてはいないか。

家庭で子供の教育をしえずに、問題が起きれば、学校と教育関係者の責任にして、被害者の立場に身をおく家庭とはいったいなんなのか。いじめる側にいるこどもの家庭でどのような教育がなされているのか、その責任が問われるべきだし、そのような家庭のありようが社会に蔓延しているのであれば、それは社会の問題だ。

嫌がらせをして社員を追い出すような企業で働いている人たちが全うな社会を作れるとも思えないし、家庭で何らかの差別を肯定する文化や会話があれば、子供は差別やいじめがあってあたりまえの社会で育って、それが学校内外で発現する。社会や家庭ではいじめを起こす要素や素地がないにもかかわらず、学校の場でのみいじめが起きているわけではないだろう。
いじめのもっとも大きな責任は学校や教育関係者にではなく、第一に加害者の家庭にある。家庭の責任を問うこともなく、いじめがあれば、学校と教育関係者の責任を問うのは社会の奇形ではないのか。
2017/5/21