代替え可能社会(改版1)

何時ごろから「高度大衆消費時代」と言われだしたのか?今や死語になった新聞用語なのか、思い出そうとしても、思い出せない。七十年代の初頭には使われていたと思うのだが、気になってWebで調べたら、たまげたことに、マルクスまで遡って共産主義と対比した説明まででてきた。
ウィキペディアでは、ヘンリー・フォードのT型フォードから始まって、日本では史上においてという大層な前置きのあとに、月賦販売、通信販売、百貨店販売などの小売業の革新が大衆消費社会を引き起こしてきたという説明があった。
マルクスにまで戻ってにも驚いたが、T型フォードもってきたあげくが、大量生産を可能にした技術革新に触れずに流通にいってしまう。何をみて言ってるのかという気がする。Wikipedia(英語)なら、もうちょっとまともな説明もあるかと見てみたが、ウィキペディアからはWikipediaへのリンクがない。さもあらんだろう。

戦後、産業が発展して、一般大衆の日常生活を快適にする均一な製品やサービスが大量生産され、大量に消費されるようになった。資本主義の発展の最終形態だとか共産主義が、社会がどうのという議論から離れて、一般大衆の豊になった日常生活を捉えて、高度大衆消費時代や高度大衆消費社会と呼んだという、巷の俗説のような説明の方がよっぽど分かりやすい。そこに大量生産を実現した製造業とそのから必然として生まれた、流通や金融サービスがある。ウィキペディアのxxx販売の小売業が引き起こしたというのは、リテールの人が書いたのか、あまりに上っ面で偏り過ぎている。

思想的にどうのやウィキペディアの能書きより、高度大衆消費文化が人びとの社会観念や志向にもたらしたものの方がはるかに重要だろう。高度大衆消費社会が消費してきたモノやサービスは、それ以前もモノやサービスとは一線を画して違う。大衆消費時代に至るまでは、モノやサービスの多くが需要(注文)に応じて、一品一葉で作られ提供されていた。規格化され標準化された大量生産に慣れた者の目には異様な、技術屋の眼には恐ろしい世界に見える。そこでは、シャツもズボンも靴も靴下も、ベッドも机も椅子も何もかもが、まるで自画像のように職人に注文してその都度作ってもらうものだった。

一品一品、注文に合わせた手作りだから、似たようなものがあるにせよ、注文した一つがあるだけで、とんでもない価格になる。自動車や腕時計などは貴族や富裕層でなければ手がとどかない。故障したら、どの部品もそのモノに作られた専用部品だから、ちょっと街の店に行って交換部品とはゆかない。作ってもらった職人に持ちこんで、個別の修理工程を経ることになる。
もし、タイヤがあの職人に作ってもらったこの車のタイヤと、こっちの職人に作ってもらったあの車タイヤが違ったら、どれもこれも違う専用のタイヤしか使えなかったらどうなるか、想像してみればいい。ネジ一つとっても、オスとメスをセットにして作ったもので、あっちのオスにこっちのメスは合わない。部品の共通化とそこから品質管理の考えが生まれたのはマスケット銃の量産の必要性からで、「種子島」では部品の互換性など考えられたこともなかったろう。

そこには部品レベルまで網羅した標準化や規格化という思想がない。高度大衆消費を可能にするには、職人による受注生産から標準化と規格化をベースにした大量(計画)生産が必要だった。標準化と規格化が生産技術と品質管理を生み、大量生産と可能とした。ここに至ってはじめて、作業(仕事)の標準化と部品の互換性が生まれた。

産業が高度に発達すると、次々と新しい考えの、新しい需要を喚起する製品やサービスが開発され市場に投入されていく。新しい製品やサービス、さらにサービスの在り方まで含めて特許を取得して競争相手に対する優位性を保とうとする。ただ、いくら保とうとしたところで、大した時間もかからないうちに、似たような製品やサービスが複数の企業から提供されるようになる。発達した産業基盤がそれを可能にする。

各社とも競合が提供しているモノやサービスとの差別化を図るべく、特色を生み出そうとはするが、製品やサービスと、それを市場で顧客に提供する社会インフラまでが標準化、規格化されると、ブランド化や外観などの、人の美意識や流行に訴える以外の差別化が難しくなる。極端に言えば、どれを持ってきても、機能も性能も、使い勝手も、付帯のサービスも、価格も、アフターサービスも、何もかもが似たりよったりになってしまう。

高度大衆消費時代がもたらしたものの最も重要な点がここにある。日常生活で使用するほとんどのモノやサービスが代替え可能(Replaceable)であることに漠然と気が付く段階から、それを顧客の立場で有効利用しだすのに時間はかからない。
何もかもが代替え可能、置換え可能、Replaceable。ちょっと考えてみれば、大統領だって、首相だって、どこかの会社の偉そうにしている社長だって、あの人でなければなどと思い込んでいるのは一部の篤い支持者か、特定の利権かなにかで離れにくい人たちだけだろう。製品やサービスだけでなく、社会において重要な地位や立場にいる人たちですら、代替え可能。ましてや一介のサラリーマンなどいわずもがなで、何時でも誰かで置き換えられる。

古今東西、人の重要性は如何にReplaceableでないかで評価されてきた。科学技術の進歩がReplaceableの敷居を低くしてきた。 時間の経過とともに、製造業でもサービス業でも、政治でも文化でも、芸術でも何でもかんでも益々Replaceable。こっちがダメでも、あっちがあるさ、あれがまずけりゃ、これでいいじゃないか。EUでは国籍もReplaceableというより、その縛りをなくして、どこに行ってもいいって、人の移動を奨励さえしている。
全てが代替え可能。これが高度大衆消費時代が人びとにもたらした最大の意識の変革だろう。もっともそれが当たり前になったとたん、人びとはいかにReplaceableでないかに、しばし見苦しいまでに価値を見出そうとする。ただ何を見出したところで、高度に発達した代替え可能社会があっという間にReplaceableにする。
2016/10/30